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表紙

金の声・鉛の道
―79―


 その名前を聞いたとたん、リーゼはためらわずに窓辺へ移動した。 大広間の一角が外に張り出していて、そこの窓からだと玄関前の階段が見えるのだった。
 リーゼが息を殺して見つめていると、間もなくヴァルが出てきた。 先ほどの軍服の上に青いマントをかけた姿で立ち止まり、彼は帽子を被って顎紐を下ろした後、手袋をゆっくり嵌め直した。
 海軍士官、ハルテンブルク大尉…… まだその呼び名に慣れなかった。 見知らぬ人のように思えて、それなのに紛れもなく、リーゼの大切な面影を残したヴァルなのだった。
 右手から左手に乗馬鞭を持ち替えると、彼は従僕が引いてきた馬の手綱を取って、首を軽く叩いた。 こんなに早く帰ることになったのを宥めているような手つきだった。

 たてがみを撫でながら、ヴァルは唇を噛みしめて、周囲を見渡した。
 その目が、張り出し窓でぴたりと止まった。


 反射的に、リーゼは白い扇を開いて顔の下半分を覆った。 だがもう遅かった。 二人の視線は空中で交差し、吸い付いたように動かなくなった。
 かじかんだ仕草で、ヴァルは手綱を指から落とした。 茶色の馬がいなないたため、従僕が慌てて手綱を拾い上げ、脇に寄せた。
 無言でリーゼを見つめたまま、ヴァルは歩き出した。 まっすぐ向かった行き先は、表門ではなく、敷地内の整った庭園だった。
 彼は、ゆっくりと青銅色の小門に足を踏み入れた。 そして、無言でかすかに首を横に動かしてから、大きく刈り込んだツゲの植え込みの奥に入っていった。


 リーゼは扇を畳んだ。 素早く振り向き、近くに飲み物の盆を運んできた従僕の一人に囁いた。
「馬車に忘れ物をしたわ。 取りに行ってきます。 奥方が気付いたら、シュライバーはすぐに戻るとお伝えして」
「かしこまりました」
 若い従僕は丁重に答えた。


 コートを取りに行く時間はなかった。 長いストールをぐるりと肩に巻きつけて、リーゼは廊下に出、サイドドアから庭にすべり出た。

 植え込みの奥には、予想通りヴァルが立っていた。 心持ち青ざめ、緊張した固い表情で。







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