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―74―
虚を突かれて、しばらくリーゼは文面を見つめ続けていた。
父だって? 母が亡くなった後に遺品を整理しても、『父』に関する物は何ひとつ出てこなかった。 どんな人か想像するヒントさえないため、父親はリーゼにとって幻の存在で、最近ではほとんど思いめぐらすことがなくなっていた。
父…… ほんの小さい子供の頃、何度か母に尋ねた覚えがある。 答えはいつも決まっていた。
「リーゼのお父さんはね、お星さまになったのよ。 あの遠い空から、いつもリーゼを見守ってくれるの」
その言葉つきから、死んだものと思っていた。
こんな怪しげな匿名の手紙なんか! ――用無し、と書いた箱にポンと放り込んで、リーゼはいったん立ち上がり、窓に向かった。
眼下の通りは、まだ閑散としていた。 工事人や買い物客が、たまに通る程度だ。 殺風景な道から目を外して、リーゼは上空を見やった。 青い鳩が三羽、連れ立って矢のように飛び、二区画向こうの建物の屋上に消えた。
親子だろうか。 仲よさそうに並んでいった。 母もああいう風に、娘を挟んで恋人と歩きたかっただろうか。
唇を引き締めて、リーゼはもう一度机に引き返した。 手紙を拾い出し、指定された日付を確かめた。
「今日? あと何時間かしかない……」
――鳩にだって帰る鳩小屋がある。 お父さんが生きているのか、もうあの世の人かさえ知らないけれど、フォン・アイブリンガー家の庭園に行って何かがわかるのなら、試してみよう――
ただのいたずらにしては、封筒が立派すぎる。 無駄足になったとしても、行かずにずっと気にしているよりましだ。 リーゼは思いに沈みながら、一度捨てた手紙をバッグの中に忍ばせた。
教会でのミサを終え、出てきたのが十時四十五分だった。 自家用馬車に乗った後、リーゼは向かいの席に座ったアイメルトに訊いた。
「ねえ、マルティン、フォン・アイブリンガーさんのお屋敷がどこか知ってる?」
フロックコートの中に襟巻きを入れ直していたアイメルトは、誠実な茶色の眼を動かして、リーゼをいぶかしげに見た。
「アイブリンガー? 海軍大将の?」
「たぶん」
「知ってるけど、岩のような堅物だよ。 それに音楽嫌いだ。 室内コンサートで大っぴらに欠伸をするもんだから、奥方が困っているらしい」
「幾つぐらいの人?」
「さあな、五十代だろう」
父親としておかしくない年代だ。 だが、音楽嫌いのガンコおやじが、若い頃にリーゼの母と恋をしたとは想像しにくかった。
晴れて風のない日だったので、馬車の車輪が気持ちよくカラカラと音を立てて回った。 リーゼはバッグを覗いて手紙があるのを確かめてから、きっぱりと言った。
「お昼にそこで約束があるの。 どの通りか、ビットナーに教えてね」
半時間後、馬車はユルゲン通りに入って、大きな楡の横で止まった。アイメルトは一緒に行きたいと言ったが、リーゼは断わった。
「馬車で待っていて、お願い。 危険はないと思うけど、万一何かあったら大声で叫ぶから」
「君の声は一キロぐらい軽く届きそうだ」
そう言って、アイメルトは微笑した。
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