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―70―
過ぎ去る月日は泡に似ている。 盛り上がって輝いた後、次第に淡く薄れて、記憶の彼方に去って行く。
リーゼがデビューしてから、八年の歳月が流れた。 リーゼ・シュライバーの名声は年々高まり、ヨーロッパばかりかイギリスにまで轟いた。
収入も、人気につれてうなぎ登りになった。 その一部を使って、リーゼは母代わりの叔母に家を買った。 リンクに面した新しい高級住宅地に建つ、ギリシャ風の小邸宅だ。
住み慣れた下宿は、人に売った。 今では花屋になっていて、向かいのカフェ『マリツキー』に出入りする客が、連れの女性に花束を買っていく。 アドリア海沿岸から運ばれてくる薔薇や椿は、冬でも大輪のつぼみをつけて店を賑わせていた。
それでも、リーゼは『マリツキー』の部屋に住み続けていた。 公演旅行から戻ってくると、無意識に表の店へ目を走らせ、そうだ、もうここは下宿屋じゃないんだ、と気付く。 その度に、一抹の寂しさが胸をかすめた。
下宿人たちは散り散りになった。 年金生活をしていた気難しいダヴィド夫人は、三年前に世を去った。 教師のボルツは、学校の近くに宿替えした。 ときどきリーゼの舞台を見に来て、応援してくれる。 白髪が増えたが、元気だ。
親切で陽気なバウマン姉妹のうち、姉のロジーナは結婚した。 相手は小粋なフレンチ・レストランのオーナーで、リーゼも式に招かれ、祝福の歌を披露した。
妹のベアータはというと、独立してダンス教室を開いている。 なかなか評判がいい上に、リーゼが劇場の新人たちを回すので、生徒が五クラスもいて、とても繁盛していた。
十一月最初の土曜日は、晴れ上がって寒い一日だった。 夜は更に深々と冷え、薄い手袋では指先がかじかんだ。
新しくできたメートケ劇場の出し物が終わって帰る途中、がっちりした上等な馬車の中で、リーゼは明日の予定をアイメルトと打ち合わせていた。
「九時からバーデンの教会でハレルヤを歌うのね」
「そう。 午後は二時半からフォン・クラッケン侯爵夫人のお招きでお茶の会がある」
「で、夜はメートケで今日と同じ……」
「わあっ!」
御者の叫び声で、話が遮られた。 続いて馬車が大きくねじれ、リーゼは右肩を、向かい合って坐るアイメルトは左の腕を、馬車の内壁に強くぶつけた。
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