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表紙

金の声・鉛の道
―69―


「あっちへ座りましょう。 ここでは落ち着いて読めないでしょうから」
「え? ああ、そうですね」
 返事はしたものの、リーゼは気もそぞろで、どの席に座ったかまるで自覚がなかった。


 腰を下ろすと同時に、リーゼは紙を広げた。 そこには確かに、ヴァルの懐かしい字で走り書きがしてあった。
『可愛いリーゼへ
 成功おめでとう。 やはり君は、僕が思った通り本物のダイヤモンドだったね。
 これからも磨きをかけて、眩しく輝いてください。 それから、できればずっとここの部屋に住んでくれると嬉しい。 離れていても、君が僕の世界にいると感じられるから。
 何年かウィーンには戻れないと思うが、君の健康と幸せをいつも祈っている。



 会えなくて、本当に寂しい!


 最後の一行だけが離れ、乱れた字で大きくしたためてあった。 それだけ激しい感情に突き動かされたのだろう。 ヴァルはサインするのを忘れていた。


 リーゼは長いこと、紙をじっと見つめていた。 愛は、自分の側だけにあったのではない。 ヴァルもまた、リーゼを諦められずに苦しんでいる様子が、ありありと伝わってきた。
 リーゼもたまらなく彼に会いたかった。 何年かウィーンに戻れないという一行が、氷の刃のように胸へ突き刺さった。
 彼女が手紙を読んでいる間、アイメルトはコーヒーカップとクロワッサンを前に置いて、静かに待っていた。
 やがて彼の忍耐に気付いて、リーゼは濡れた眼を上げた。
「ごめんなさい。 私のほうから会ってくれとお願いしたのに放っておいて」
「いや、いいんですよ」
 茶色の口髭の間から、唇がほころんだ。
「芸術家は繊細なものです。 特に、恋をしているときは」
 たちまちリーゼの頬が林檎のように赤く染まった。



 アイメルトは、二つ返事でマネージャーを引き受けてくれた。 さっそく翌日から仕事を頼み、スケジュール表を渡した後、二人はワインで乾杯してから、カフェを出た。
 雨は、まだ降っていた。 通りは薄暗く、湿った石の匂いと、これから賑やかになる歓楽街独特の期待感に満ちていた。
「これからウィトゲンに出るんですね」
 渡された予定表をちらっと確認して、アイメルトが尋ねた。
「ええ、浮気娘の役で」
 リーゼが笑いながら答えると、アイメルトは傘を開いて陽気に言った。
「じゃ、一日早いけど僕も関係者ということで、舞台の袖で見せてもらおうかな。 送りますよ」
 そして、店の横でちょうど客を降ろした辻馬車を目ざとく見つけて、呼びに行った。







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