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表紙

金の声・鉛の道
―67―


 ロジーナが連絡を取ってくれて、翌々日の午後にアイメルトが『マリツキー』へ会いに来ることが決まった。




 約束の日は天気が下り坂で、昼過ぎから小雨が降り出した。 もう十一月の初めなので肌寒く、人々は上着の襟を立て、帽子を目深に下ろして足早に通り過ぎていった。
 叔母の下宿屋がすぐ向かいなので、リーゼは今でもほぼ毎日、昼食を食べに行っていた。 その木曜日も、玉葱と鶏の煮込みを囲んで、叔母のグレーテや下宿人のダヴィド夫人と世間話にふけった後、リーゼはケープのフードを被って、素早く通りを横切ろうとした。
 黒い傘を手に食器店の方角から歩いてきた男性が、水たまりをよけて素早く足を運んでいるリーゼに目を止め、立ち止まった。
 太い穏やかな声が呼びかけた。
「シュライバーさんですね?」
 リーゼも足を止め、傘をさしかけた男を見上げた。 角ばった大きな顔が、なごやかな微笑を浮かべて見下ろしていた。
 この人らしい。 リーゼも笑顔になって問い返した。
「アイメルトさん?」
「そうです。 昨日、ライゼナッハ音楽堂でグノーのアヴェ・マリアを歌っているところを拝見しましたよ。 何というか、大波に揺すぶられるような気持ちになりました」
 ありがとう、と答えようとしたとき、ふと通りの彼方が目に入った。 小雨にけぶる街灯の横で、黒いコートを着た男が馬車に乗ろうとしていた。
 七十メートルは離れていただろうか。 それに、リーゼから見えたのは男の後ろ姿だけだった。
 だが、全身が硬直した。 開いた馬車の扉から乗り込んでいく脚の動き、背中の線、腰のかがめ方、その全てが、稲妻に照らし出されたように、リーゼの意識に焼きついた。
 すぐ前で社交的に微笑んでいた娘が、いきなり血相を変えて駈け出したので、アイメルトはびっくりした。
「あの……」


 ひたすら一点を見つめて走ったため、リーゼは新聞売りの少年にぶつかり、次いで反物を急いで運びこもうとしていた織物屋の主人と交錯した。
「おい! 痛いじゃないか」
「ごめんなさい」
 小声で詫びたものの、リーゼの全神経は、ゆっくり動き出した馬車に集中していた。
――あの人だ。 あの人だ! でも追いつくのは無理。 私はここよ! 大声で呼べば、きっと聞こえる!
 必死で通行人を掻き分け、前に前に進みながら、リーゼは息を吸い、叫ぼうとした。


――ヴァル!――







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