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表紙

金の声・鉛の道
―65―


 声の衰えかけた歌手ひとりだけなら、あまり影響力はない。 だが、カルラには後ろ盾がついていた。 政務次官のヴィクトル・フォン・コッホ男爵がカルラの愛人だということは、劇場関係者なら誰でも知っていた。


 午後の四時に、リーゼはギーゼブレヒトの事務室に呼び出され、解雇を申し渡された。
 ギーゼブレヒトは、ひどく不満そうな暗い顔で、ぶっきらぼうに口を切った。
「昨夜の君は素晴らしかった。 文句のつけようがない。 感謝してる。
 だが、オペレッタ上演には驚くほど金がかかるんだ。 後援者の機嫌を損ねると、劇場そのものが危なくなる。
 大口の寄付をしてくれる後援者の一人が、カルラを応援していてね」
 リーゼはうなずいた。 最後まで聞かなくても、もう事情はわかった。
 ギーゼブレヒトは、折り畳んだ紙切れを引出しから出してきて、リーゼに渡した。 ウィーン銀行の小切手だった。
「違約金を上乗せしてある。 君には何の落ち度もないんだからね」
 それから、ぎこちなく付け加えた。
「申し訳なく思っている。 僕にもう少し力があったらなあ。 君は間違いなく将来のウィーン・オペラを背負って立つ人材だ。 それをむざむざ手放すなんて、なんというばかばかしさだ!」


 リーゼが悄然と事務室を出て、静かにドアを閉めると、心配して詰めかけていた仲間たちが一斉に取り囲んだ。
 ロベルトが声を潜めて尋ねた。
「どうだった?」
 薄く笑って、リーゼは答えた。
「クビだって」
 どよめきが走った。 役を降ろされるだろうと囁かれていたものの、まさか劇場を出されるとは予想されていなかったのだ。
「ひどい! あの『瀕死のアヒル』が、そこまでやる?」
「昨日の歌い方じゃ、アヒルどころか『息の切れたロバ』だよ」
 合唱団の連中は、容赦なくカルラの悪口を言っていたが、リーゼは特に反応せず、一人一人と握手をして別れを惜しんだ。
「他の劇場に行ってみてね。 あなたならどこでも両手を広げて雇ってくれるわ」
「ありがとう。 考えてみる」
「こんな意地悪に負けちゃだめよ!」
 アルトのビアンカがリーゼを抱き寄せて、強い調子で励ました。 ロベルトは、怒りを通り越して唇が白くなっていて、リーゼの手を握り締めたまま、激しい口調で呟いた。
「畜生! こうなったら、他へ売り込みだ! 僕も行くからね。 明日どこかで待ち合わせよう。 あのカフェだ。 そうだ、『マリツキー』で会おう!」


 やがて彼らは、夜の公演の準備に散っていった。 リーゼは一人、荷物をまとめて楽屋口を出た。 お金だけは、何ヶ月か遊んで暮らせるほどある。 今日ぐらい贅沢して、辻馬車に乗って帰ろうか、と、目で探していると、不意に肩を叩かれた。
 振り向いた先に、テオの笑顔があった。
「黙って帰っちゃ駄目だよ。 君はもう有名人なんだ。 自分で知らなくても、世間は君を放っておかない」
 そして、リーゼが瞬きしている間に彼は馬車を呼び止め、乗るようにせき立てた。
「さあ、行こう。 次の大仕事が待ってるよ!」





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