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表紙

金の声・鉛の道
―61―


 楽団員が夜逃げしたり、スポンサーの市会議員がひいきの女性合唱員にソロを歌わせろとごねたりして、いろんなゴタゴタはあったものの、オペレッタ『キューピッドの眠り』は、何とか予定の七月十七日に開演することができた。
 リーゼは、カフェ・マリツキー専属のメッセンジャーに頼んで、刺繍工場の元同僚たち何人かに招待状を配達してもらった。 主演クラスの歌手は、入場券を五枚貰えるのだ。 プリマのカルラは無理を言って、三十枚ぐらい手に入れているという噂だった。



 いよいよ初日の幕が開いた。 前評判がよかったため、客席はほぼ満員で、指揮者が現れてタクトをかざしたとたん、開演前のざわめきが潮を引くように消えていくのが、心地よい興奮を誘った。
 リーゼ達の出番は一幕の後半からだ。 早めに衣装とメイクをきちんと整えて、リーゼは胸を弾ませながら、袖で舞台を見つめていた。
 リーゼとロベルトは、二人とも受け持ちの曲をしっかり身につけていたし、その上にリーゼは合唱曲まですべて覚えて歌うことができた。
 それに引き換え、仕上げ練習になっても、カルラは見せ場のアリアを三度に一度は間違えた。 一番と二番の歌詞をごっちゃにするのは普通で、指揮者のルーデルが指摘すると、プッとふくれて楽譜を投げたり、足を踏み鳴らしたりの騒ぎになった。
 プリマはあんなものだ、と、周囲は大して気にしなかった。 メロディーが頭に入っていれば、後は舞台の下に隠れたプロンプターが小声で歌詞を教えてやればいい。 いつもと同じだと、みんな軽く考えていた。
 初日の晴れ舞台を、リーゼもそう思って眺めていた。 カルラはやはり歌を忘れがちで、プロンプターのハラルトが思わず大声になって必死で教えていたが、狩人役のマテウス・『ガーコ』・ゲーベルが登場するまでは、どうにか無難に歌っていた。
 最初の二重唱の真ん中辺で、カルラが音を外した。
 つられて音程を上ずらせたマテウスは、目に力を込めてカルラを睨みながら、伴奏に合わせてメロディーに戻った。
 そこでは、観客にほとんど気付かれないですんだ。 しかし、次にカルラの喉が詰まって声が裏返ったときは、あまりに妙な音が出てごまかしようがなかった。
 男の観客が、容赦なく笑い出した。 マテウスは相手役をグッと引き寄せ、大きな声が出せないように胴を固く締めつけて、残りを歌い終えた。
 拍手とクスクス笑いが入り混じる中を、二人は上手〔かみて〕に引っ込んできた。 マテウスは怒りで火を吹かんばかりだった。
「なんなんだ! あれだけ練習しといて、キイを間違えるってどういうことだ!」
「ハラルトのせいよ!」
 マテウスの腕を力まかせにもぎ離すと、カルラは金切り声で抗議した。
「あんな早口で歌詞を言うなんて! 聞き取れなくて気が散ったのよ!」
「ちゃんと覚えておけば、教えてもらう必要なんかないはずだ! 会話部分ならともかく、肝心のアリアの歌詞を忘れるなんて……」
「もういいわ! 何よ偉そうに! そんなにご立派で何もかも覚えられるんなら、二人分歌いなさいよ! 私は帰るわ!」
 表舞台まで響くほど派手に言い合った後、カルラは舞台衣装のまま、目を三角にして楽屋口から出ていってしまった。








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