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表紙

金の声・鉛の道
―60―


 翌日、リーゼは道幅をへだてただけの向かい側に引っ越した。
 叔母のグレーテと、それに下宿人の一人で学生のレギナルトが手伝ってくれたから、リーゼが持っていったのは布のバッグに詰めた身の回り品だけだった。
 新しい部屋には、立派な家具が備え付けになっていた。 わざわざリーゼの粗末な箪笥や鏡台を持ち込む必要はない。 それでも、母の形見の衣装箱や、たくさん貰った楽譜の山は、運ばなければならなかった。



 ドレスを新居のクローゼットにかけ終わって、やれやれと腰を伸ばすと、グレーテは眩しそうに大きな白い部屋を見渡した。
「豪華だねえ。 大きな寝室と居間に、従者用の小部屋まであって」
 棚、丸テーブルの縁、しゃれた椅子の背と次々に指を置いて、リーゼは目を閉じた。 窓から垣間見たヴァルの姿が、瞼の奥に浮かんでくる。 外出から戻ると、マントを脱いでパッとこのテーブルに投げるのが癖だった。 はだけたガウン姿のまま、椅子を蹴倒すようにしてバルコニーへ出てきたことも。
 うつむいて思い出に押し流されているリーゼを見て、グレーテは歩み寄って肩に腕を回した。
「不思議な若者だったね。 あんたに音楽を教え、一人前の歌手にして、売り込んでくれた。 何の見返りも求めずに」
「それどころか」
 ぎこちなく、リーゼは囁き返した。
「こんな立派な部屋にただで住まわせてくれるのよ。 早く一人前の歌手になって、自分で家賃を払えるようにならなくちゃ」
「やっぱり戻ってきたいんだろうね」
 姪の肩越しに、グレーテはキラキラと日光の射し込む窓を見つめた。
「あんたとの繋がりを断ち切りたくないんだ。 いつかあのドアをノックして、腕を広げて入ってくるかも」
 不意に息ができないほど苦しくなって、リーゼは叔母の腕をそっと外し、窓に逃れた。
「たぶん無理。 二人の間には、大きな壁が立ちはだかってる。 絶対に探しちゃいけないって言われたの」
「あんたの方からはだろう? 向こうは事情が変わるかもしれない」
「どんな!」
 思わず大声を出すと、グレーテは曖昧に微笑んだ。
「邪魔をしていた人間が死ぬとかね」
 リーゼは矢のように素早く振り向いた。 グレーテは重々しく指を振ってみせた。
「まず間違いない。 親か後見人があんたとの仲を裂いたんだ。 そいつがこの世から消えれば、彼は帰ってくる」
「期待を持たせないで」
 リーゼは強くテーブルの端を握りしめた。 あぶら汗が額に浮いた。
「彼は行ってしまった。 他所の土地でたくさんの出会いがあるでしょう。 いつまでもウィーンの下町娘を覚えているとは限らないのよ」








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