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金の声・鉛の道
―57―


 翌日、翌々日と、カルラは練習に遅れて来た。 曲の覚えも悪く、重唱の練習では、相手役のテノール歌手マテウス・ゲーベルが、堪忍袋の緒を切って怒鳴りあうシーンが見られた。
 一方、リーゼとロベルト・ベーメは順調に稽古を進めていた。 男性と本格的に二重唱をしたのは初めてで、リーゼはハーモニーを心から楽しんでいた。
 ピアノ伴奏者のテオも、年齢が近い二人のほうが練習しやすいと言ってはばからなかった。
「お姫様とガーコはどっちも気難しくてさ、自分が歌いやすいように音程を上げろ、下げろって勝手放題なんだ。 こっちだって楽譜見ながら弾いてるんだから、そう簡単に転調なんかできないよ。 ほんと疲れる」
 ロベルトが笑いながら指を振ってみせた。
「ゲーベルさんをガーコと呼ばないほうがいいよ。 確かに喉を使いすぎると鵞鳥〔がちょう〕みたいな声になるけど」
 リーゼは、はっと耳をそばだてた。 音階を変えるのは難しいのだろうか。 ヴァルはいつも簡単にサラッと弾いていたが。
 そのとき、三人は舞台の真ん中にあるメインのピアノではなく、端に置かれたサプのアップライト型の横で話していた。 シャープやフラットが複雑に並んだ譜面を覗いて、リーゼは小声で尋ねた。
「調を変えるのは難しいの?」
 テオは肩をすくめ、白鍵を一つずらして音階をオクターブ分弾いてみせた。
「ハ長調をニ長調にすると、こんな感じ。 黒鍵が二個入ってくるだろう?」
「ほんとだ。 じゃ、上や下に音階を変えてすらすら弾けたら相当な腕前だってこと?」
「音が体にしみこんでるんじゃないかな。 確かブラームス先生ができると聞いたよ。 彼はピアノの大天才だ」
 やっぱりヴァルのピアノは並外れて上手だったんだ。 リーゼはそう確信した。


 そういうテオも、かなり上手な弾き手だった。 独奏者になれるぐらいうまいのに、とリーゼは思ったが、テオは縁の下の力持ちで満足しているようだった。
「あっちのお二人さんはフリッツに任せて、このピアノで合わせよう。 野原の影が〜♪のところ、さっきギーゼブレヒトさんに注意されてたよね」
「そう、もうちょっと軽くビブラートを効かせて、だって」
「よし、さあどうぞ」
 椅子を引き寄せて、テオは小節を繰り返した。 二度目にぴたりと声が合って、嬉しくて微笑み交わしたとき、甲高い叫びが飛んできた。
「うるさいわね! 裏のレッスン室に行きなさいよ! 邪魔!」
「ああ、ついにお姫様の雷が」
 慣れた様子で、かみつきそうな顔をしているカルラ・フレーミヒに軽く頭を下げると、テオは二人の若手をうながして、ごちゃごちゃした舞台裏の狭い通路に連れていった。



 






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