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表紙

金の声・鉛の道
―54―


 工場での別れは、意外な展開になった。
 倉庫で絹の残量を調べていた職工長は、リーゼが歩み寄って、今日で辞めることを告げると、ぎくっとなった様子で屈めていた腰を伸ばした。
「辞める? 給料が不満なのか? それなら、あと5グルデン増やしてやってもいいぞ」
 え? いつ辞めたっていい、代わりはいくらでもいるって言ってたじゃない――当惑して、リーゼは密生した睫毛の下から職工長の顔を窺った。
「いえ、給料に不満があるわけじゃ。 やりたい仕事が見つかったので、そっちにしたんです」
「へえ」
 職工長は目を光らせ、いきなりリーゼの腕を痛いほど掴んだ。
「よその工場に引き抜かれたのか? 許さんぞ!」
「ちがいます!」
 リーゼも負けずに、思い切り大声で叫んだ。
 なにしろよく通る声だ。 倉庫で作業していた数人の従業員が、一斉に振り返った。
 職工長は、しぶしぶ手を離し、脅すように言った。
「嘘じゃないだろうな」
「ええ」
 怒って、リーゼは強い眼差しで彼を睨んだ。 前からこの男は嫌いだった。 職人には威張り、工場長にはぺこぺこする。 おまけに、出入りの納入業者からワイロを巻き上げているという噂が立っていた。
「それなら勝手に辞めろ。 今日の日当は払わないぞ。 ろくに働いてないんだから」
「結構です」
 そう言い返せるのは気持ちよかった。 リーゼはツンとして、仲間たちに挨拶するために工房へ入っていった。


 突然の別れに、刺繍職人たちはあっけに取られていた。
 特に、目をかけてくれていた先輩のハイデマリーは、残念がった。
「あんたなかなか筋がいいのに。 もう少しで一人前ってところでどうして?」
「何でも縫えるようになるまで頑張るつもりでしたけど、運命が変わってしまって」
「運命?」
 ハイデマリーは眉をひそめた。 大げさな言い方だと思ったようだった。 だが、リーゼにしてみれば、今はまさに運命の変わり目なのだった。
「それで、何の仕事につくの? それとも、いつも迎えに来ていたあの若い金持ちと、どこかへ行ってしまうの?」
 ヴァル…… 胸がズキッとねじれた。 リーゼは視線を外し、低く答えた。
「いいえ、彼はもうウィーンにはいません。 次の仕事は決まっています。 これから大変だけど、努力します」
 頑張って芽が出たら、舞台で歌えるようになったら、この仲間たちを招待しよう。 でもそれまでは、軽々しく歌手になったなんて言うのは早すぎる。 リーゼはそのとき、用心深くそう心に決めた。



 顔見知りの人たちと別れの言葉を交わして、戸口に行きかけたとき、レナーテが立ち上がって後を追ってきた。
 彼女は真剣な顔をしていた。
「リーゼ、まさかやけになって、遊び人になろうなんて思ってないよね」
 リーゼは微笑み、まっすぐレナーテを見返した。
「違うわ。 私は誰のものにもならない。 自分の道を進むの」
「危なっかしいなあ」
 始終付き合う相手を換えている浮気娘のくせに、レナーテはそう言って溜め息をついた。
 






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