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―53―
翌日、ウィーンの空気はどんよりと沈んでいた。
前日の金曜日、リーゼがオーディションを受けていたちょうどその頃、オーストリア軍はイタリア戦線で、歴史的な大敗をしていたのだ。
街路には、敗戦を知らせる号外の紙切れがあちこちに散乱し、がやがやと通勤する人々の靴に踏みにじられて、泥にまみれていた。
「ひどい。 ソルフェリーノの小っぽけな丘ひとつ守れないのか!」
「ナポレオン三世(←フランス皇帝で指揮官)が高笑いしている姿を想像すると、腹が煮えくりかえる!」
ステッキを抱えた紳士たちから酒場にたむろする季節労働者まで、皆が怒っていた。 若いフランツ・ヨーゼフ帝は馬で戦場を駆け回るだけの能無しだと、聞こえよがしに言う声まであった。
騒然とした街筋を、リーゼは早足で通り過ぎた。 暴動でも起こりそうな雰囲気だ。 ヴァルが傍にいてくれない不安が、余計につのった。
今、彼はどこでどうしているのだろう。 旅の途中で戦いに巻きこまれてはいないだろうか。 まさかとは思うが……
想像したとたんに泣きそうになったので、リーゼは慌てて小走りになった。
工場でも敗戦の噂で持ちきりだった。 そのせいで、いつも影のようにリーゼを守っていた青年が見えないことに気付いた者は少なかった。
ただし、男女関係に敏感なレナーテは、迎えが来ないことにすぐ気付いて、帰り道に声をかけた。
「一緒に目抜き通りまで行こう。 帽子屋に寄るから」
リーゼが答える前に、レナーテは擦り寄ってきて勝手に腕を組んだ。 そして言った。
「朝からずっとおとなしかったね。 そうか、あの人は行っちゃったのか……。 三日我慢できれば、後はずっと楽になるからね。 がんばって」
ちょっと面白がっている風ではあるけれど、真面目に心配してくれているようでもあった。 リーゼはわずかに口元をほころばせて、小さくうなずいた。
そして月曜日、リーゼはいつも通り工場に行ったが、十時過ぎに頭痛がするからといったん早退した。 職工長は不機嫌に怒鳴りちらした。
「丈夫なだけが取り得だと思ったが、それさえ怪しいんだな! いいか! 今週もう一回休んだら、すぐに首だぞ! おまえの代わりはいくらでもいるんだ!」
アン・デア・ウィーン劇場の門をくぐるとき、心臓が激しく鳴った。 音楽監督の気が変わっていたらどうしよう。 もう契約のことなんか忘れていたら……。
その心配は要らなかった。 白い髭をたくわえた門番に訊くと、彼はすぐうなずいて、こう言った。
「リーゼ・シュライバーさんだね? ギーゼブレヒトさんがお待ちかねですよ」
教えてもらった音楽監督の事務室では、革張りの椅子にギーゼブレヒトが渋い笑顔で待っていて、分厚い契約書を出してきた。
三箇所にサインするだけだった。 あっけないほど短い時間で、リーゼは劇場の専属歌手になった。
もう明後日には、新しいオペレッタの練習が始まるとのことだった。 集合時間を決めた後、なんとなくぼうっとした頭で、リーゼは再び街に出た。
後は工場へ辞職の挨拶に行くだけだ。 職工長は何と言うだろう。 たぶん、腰を抜かすほど驚くに違いない。
その姿を想像すると、ちょっと気分がよくなった。
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