表紙目次文頭前頁次頁
表紙

金の声・鉛の道
―52―


 前金として貰った金貨の一枚を、リーゼはグレーテに渡した。 喜んだグレーテは、また下宿人達を集めて出世の前祝をしようと提案したが、リーゼは首を振った。
「緊張して疲れたの。 晩御飯はいらないわ。 早めに寝ます」



 服を脱がず、灯りもつけずにベッドへ座り込むと、正面に向かいの窓が見えた。
 リーゼはすぐ立ち上がって、乱暴にカーテンを引いた。 ヴァルのいない部屋など、見たくなかった。


 枕に突っ伏しているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。 下敷きになった腕の痛みで目覚めると、天窓から薄青い明け方の光が射していた。
 仰向けに寝返りを打って、リーゼはぼんやりと窓の光を眺めた。 悲しみに鈍った頭が次第に回転を始め、これから先を思い巡らした。
――月曜には劇場に行かなくちゃならない。 ということは、今日で工場を辞めるってことだ――
 リーゼは用心深かったから、正式に契約が成立するまで工場に言い出すつもりはなかった。 でも、十五のときからコツコツ務めあげ、あと三年も修業すれば一人前の刺繍職人になれると楽しみにしていた職場を、そして長年の仲間を失うのかと思うと、胸がいっそう閉ざされた。
 私は本当に歌手になりたいんだろうか――リーゼはそう自分に訊いてみた。 別にプロにならなくても、心の赴くままに歌えれば、それでいいんじゃなかったのか。
 体を起こして頬杖をつくと、リーゼは目を閉じた。 とたんに、ヴァルの空虚な眼差しが瞼の裏に浮かんだ。
――最近はずいぶん明るくなってきていたのに、また奈落の底に突き落とされたような顔だった……あんなに優しく忍耐強い人を、何があれほど苦しめるんだろう――
 ヴァルは私に夢を託していたんじゃないか、という考えが、初めてリーゼの頭をかすめた。 財産はたっぷりあるのに、自由のないヴァル。 檻の豹が草原を夢見るように、彼は舞台で羽ばたく雲雀〔ひばり〕を求めたのだ。


 リーゼは、ゆっくりベッドに起き上がった。 そして、自らに言い聞かせた。
――ヴァルは私が成功すると信じていた。 私も自分を信じよう。 努力が報われるものなら、限界まで試してみよう。 大好きな歌が、表舞台でどこまで通じるか!――

 






表紙 目次前頁次頁

背景:ぐらん・ふくや・かふぇ/ボタン:May Fair Garden
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送