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表紙

金の声・鉛の道
―51―


 帰り道は、一人だった。
 久しぶりの一人。 驚くほど心細かった。
 だが、怒りの炎がリーゼを支えていた。 身分違いは初めからわかっていたことだ。 無理に何かを頼んだり要求した覚えもない。 だからせめて、別れの挨拶ぐらいさせてほしかった。 それを立ちふさがって邪魔した上に、金まで渡そうとするなんて!
「安く見ないでよね、トンマ!」
 久しぶりに下町言葉で啖呵〔たんか〕を切って、リーゼは少し胸のつかえが降りた。


 夕市が立ち、買い物客で賑わうオルトヴィーン通りへ曲がったとき、背後からパタパタと足音が近づいてきて、男の子がリーゼを追い越し、前に立った。
 息を弾ませながら、男の子は高い声で言った。
「シュライバーさん?」
 驚いて、リーゼは足を止めた。
「そうよ」
「これ渡してくれって」
 ぐんと突き出した手には、二つ折りにした紙が載っていた。 それを取り、急いで開いて、リーゼは目を見張った。


『大切なリーゼへ
 急に遠くへ行くことになった。 逃れられない運命だ。
 黙って去ったのは、別れを言うのが耐えられなかったから。 また逢えるかどうかは、神にしかわからないことだ。
 でも、どこにいても君を想っている。 君は成功への第一歩を踏み出した。 今はそれだけが僕の慰めだ。 幸福を祈る。
いつまでも君のヴァル』



 いつまでも君の…… もうこらえ切れなかった。 リーゼの瞳からどっと涙があふれ、手に持った紙の上にいくつも点を作った。
 小さくしゃくりあげながら、リーゼは手紙を配達した子供に訊こうとした。
「これ、どこで頼まれたの……?」
 もう前には誰もいなかった。 活発な子供は、手紙を渡すとすぐに姿を消していた。



 戻ってきたリーゼの暗い顔を見て、叔母のグレーテはてっきり審査に落ちたと勘違いした。
「そんなに落ち込むんじゃないよ。 あんたの歌は一流さ。 たぶん声が大きすぎて、合唱団じゃ他の人と釣り合いが悪かったんだろうよ」
「そうなの」
 ぼんやりした口調で、リーゼは答えた。
「際立つ声なんですって。 ソロ契約してくれたわ、週十五クローネで」
 食堂テーブルの拭き掃除をしていたグレーテは、雑巾を持ったまま両手を上げ、言葉を失った。
「まあ……まあまあ! なーんてこったろうね!」







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