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表紙

金の声・鉛の道
―50―


 黒衣の男が話し終わると、ヴァルは舞台に顔を向けた。
 目と目が合った瞬間、リーゼはぞっとした。 いつも濡れたように美しいヴァルの瞳が、虚ろな穴になっていたのだ。
 それは、果てのない空洞だった。 リーゼに視線を置いているのに、見ている気配がない。 ヴァルの抜け殻だけがそこにあって、本体は急速に縮み、後退し、背後の暗がりに吸い込まれていこうとしていた。


 反射的に、リーゼは前に踏み出して舞台を駆け下りようとした。 だが、ギーゼブレヒトが慌てて止めた。
「おいおい、まだ話は終わっちゃいないよ。 いいかい? 二十七日の月曜日だ。 午前十一時。 待ち合わせ場所はわたしの事務室。 わかったね?」
「はい」
 上の空でリーゼは答え、納得させるために何度もうなずいてみせ、ようやくギーゼブレヒトから逃れて客席への階段に足をかけた。
 ヴァルは後ろ姿を見せて、出口へ向かっていた。 その背中に、リーゼは必死で叫びかけた。
「ヴァル! 待って!」
 一瞬、彼の動きが止まった。 だが、振り向かないままにまた歩き始め、勢いよくロビーへ出ていった。
 代わりに足を止めたのは、ヴァルの後から付き従っていた黒衣の男だった。
 転がるように駆けてきたリーゼの前に立ちふさがると、男は冷ややかな眼差しを彼女に据えた。
「待ちなさい」
 バイエルン風のアクセントのある話し方だった。 耳のいいリーゼには、すぐぴんと来た。
――この人は、別荘を探しあてて尋ねてきた使いの男だわ――
 上着、ズボン、それに靴まで真っ黒ずくめの男は、薄い唇だけを動かしてリーゼに告げた。
「ヴァルター様の休暇は終わりました。 戻らねばなりません」
「でも、まだ大学は休みで……」
「人生の休暇という意味です」
 男はぴしりと言い返し、鋭い目を光らせた。
「今日ここで、ヴァルター様はあなたに夢をお与えになった。 これ以上何を望むんですか?」
「私は……」
 もどかしく言い返そうとするリーゼの言葉など、男は聞く耳持たなかった。
「お嬢さん、あなたとヴァルター様では住む世界が違います。 後を追わないでください。
 それから、決して探そうとしないように。 他ならぬヴァルター様御自身に多大な迷惑がかかりますから」
 迷惑…… しびれたように立ちすくんだリーゼの前に、男は箱を差し出した。 丸くて、帽子箱のように見えた。
「派手に遊び暮らしても五年は保つだけのものが入っています。 結婚の持参金にしてもいいでしょう」
 リーゼは、ゆっくりと両手を後ろに回した。 顔が強ばった。
「お金ですか? 要りません。 貰う理由がありませんから」
 錐〔きり〕のようにリーゼをえぐっていた男の視線が、初めて動いた。
 手に持つ箱に目を移すと、男はややぎこちなく言った。
「そうですか。 では成功を祈ります」
 リーゼは答えず、すっくと首を上げて、男が音もなく遠ざかるのを見送った。


 胸が、焼けるように熱かった。







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