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表紙

金の声・鉛の道
―48―


 十番目の女性がおろおろ声で歌い終わる頃には、ギーゼブレヒトもだいぶ聞き疲れてきた様子で、首を回す運動をしながら無愛想に言った。
「はい、次の人」
 リーゼはすっと立ち上がり、ピアノの横に行って楽譜を渡した。 さっきから考えていて、曲目はドニゼッティの『誰もが言う』にした。
 伴奏者はタバコを素早く一服した後、譜面を手に取って軽くうなずき、すぐに弾き始めた。
 リーゼは胸に深く息を貯めて、前奏が終わるのを冷静に聞いてから、声を発した。


 とたんに、何かが舞台一面に張り詰めた。 装置の奥を忙しく行き来していた照明係や大道具係の足がぴたりと止まり、呼び交わす声が消えた。
 上体を倒して椅子の背に寄りかかっていたギーゼブレヒトが、ゆっくりと姿勢を正して座りなおした。
 譜面一ページ分を歌い終わって、リーゼは当惑した。 もう結構、という声がかからない。 このアリアは好きで何度も歌ったから、細かい抑揚まで完全に覚えているものの、延々と歌わされるのは予想外だった。
 助けを求めて客席の後ろに視線が泳いだ。 すぐにヴァルが見えた。 彼は通路にすっくと立っていて、目が合うと深くうなずいてみせた。
 いいよ、その調子、そのままどんどん続けて、と、大きな体全体が告げていた。 不安になりかけたリーゼの心に、力強いヴァルの声がよみがえった。
――かわいいリーゼ、君は僕の誇りだ――


 リーゼの瞳に、輝きが宿った。 胸を自然に張り、顎をこころもち引いて、最終のコロラチュラ・パートに入ると、周りのあちこちから溜め息がもれた。
 ギーゼブレヒトの目も光った。 彼はいまや、椅子から身を乗り出して聞きほれていた。 そのせいで、ストップをかけることを忘れていたのだが、たとえ思い出しても口に出さなかっただろう。
 広い劇場の中は、魔法にかけられたようになっていた。


 四分あまりのアリアを、リーゼは最後まで歌いきった。
 自分では、いい出来だと思った。 いつも通りに、いやむしろ普段よりリラックスして歌えた。
 だが、ピアノの音が消えても、周囲は静まり返っていた。 困ったリーゼは、楽譜を伴奏者から受け取ろうとして、おずおずと手を伸ばした。
 その手を、彼はグッと握った。 驚いて、リーゼは声をあげるところだった。
 彼は、息を弾ませて褒めちぎった。
「君! リーゼ・シュライバーさんだっけ? すごい! ただひたすら凄い! まさに天上から降ってきた声だ!」







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