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表紙

金の声・鉛の道
―44―


 その晩、寝る支度を済ませて髪をまとめていると、視線が壁際の棚に止まった。
 そこには立派な楽譜集が、ずらりと並んでいた。 みな新品か、それに近いものだ。 ヴァルは、せっせと持ってきた楽譜を、惜しげもなくリーゼにくれるのだった。
――恋人から貰うものとしては変わってる。 でも私には、何よりも嬉しいもの――
 高価な宝石を買ってもらいなさいよ、とけしかけたレナーテを思い出して、リーゼは複雑な微笑を浮かべた。 彼女はひとときの恋しか知らない。 男は金を引き出す財布、と割り切っているのだろう。
 夏が終われば新しい学期が始まり、ヴァルはライプチヒへ去る。 でも、必ず戻ってくるはずだ。 私のために部屋を借りておいてくれるのだから。
 思い立って、リーゼは窓辺に行き、窓枠をそっと引き上げて、向かいの部屋に眼を凝らした。
 まだカーテンは引いていない。 明るい室内を、ヴァルがときどき行き来するのが見えた。 風呂上りらしく、裸足で長いガウンを着ている。 前がはだけて胸元が露わになっているので、リーゼは少しどきどきした。
 やがて用事が終わったのだろう。 ヴァルはカーテンを閉めようとした。 そこで初めて、細長い窓が上がってリーゼが頭を出しているのに気づいた。
 ヴァルは笑い、テーブルに置いた燭台を持って掃き出し窓を開いた。 腕が上下左右に動き、光の文字を形作った。
「L……I……E……B……E……。 愛してる?」
 たちまちリーゼの瞳がうるんだ。 面と向かって言われたのは初めてだ。 たとえ光のはかない文字でも……!
 リーゼは頭を引っ込め、急いでランプを取ってきた。 腕でまず右に、それから左に大きく半円を描いた。 両方を足せば、ハート模様になるように。
 通りの向こうで、ヴァルが大きくうなずいた。 そして指先に唇をつけ、ふっと吹く真似をして、キスをリーゼめがけて飛ばした。




 その夜遅く、リーゼは夢を見た。 真っ黒な馬に二人乗りして、ヴァルと夜空を飛んでいる夢を。
 明けがたに目覚めた時、なぜかじっとりと冷や汗がにじんでいた。







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