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表紙

金の声・鉛の道
―42―


 翌日の土曜日は、朝から雨が降っていた。
 昼過ぎに、ヴァルは傘を差していつも通り迎えに来てくれたが、この天気ではリンクに立ち寄れない。 仕方なくまっすぐに家路をたどった。
 大きな男物の傘に寄り添って入っていると、不思議な安心感があった。 しかし、視野が狭くなるため、周りにいっそう用心が必要だった。 狭い通りは、いつものように混雑していて、油断していると何が起こるかわからない。 リーゼがヴァルと目を見交わして微笑み合った今も、反対方向から走ってきた二台の馬車が、お互い道を譲らずに怒鳴り合っていた。
 腕でリーゼを庇い、急ぎ足で馬車の横を通り過ぎた後、ヴァルは一度振り返った。
 それから、急に思いついたように、ぽつんと言った。
「そのうち、大学へ戻らなきゃいけないんだ」
 リーゼはすぐ頷いた。 当然のことだ。 彼は休暇でウィーンに滞在しているだけなのだから。
 数秒沈黙してから、ヴァルはや早口で提案した。
「でも、泊まっている部屋はそのままにしておくつもりだ。 僕がいない間、君が使ってくれないかな」


 大学へ戻ると聞いて、胸がキュッとしぼんだ。 わかっていても、やはり辛かった。
 だからなおさら、後半の言葉が嬉しくて、涙がにじみそうになった。
 新たな希望に胸をわくわくさせて、リーゼは傘を持つ大きな手を暖かい手のひらで包んだ。
「帰ってくるのね? 次の休暇が来たら、このウイーンへ!」
「そのつもりだ」
 微笑を見せて、ヴァルは答えた。 その笑顔にはまだ微妙な翳りが残っていたが、以前に比べればずいぶん明るかった。




 翌十九日の日曜日は、雨は止んだものの、どんよりと曇っていた。 空には次々と濃い雲が流れこんでいたにもかかわらず、二人は別荘行きを敢行した。 昨日歌えなかったリーゼが落ち着かなくなっていたし、ヴァルも郊外の新鮮な空気を吸いたかった。
 いつもの小さな馬車で野道を辿っていると、身の丈ほどの藪が揺れて、小鹿のうるんだ目が一瞬覗いた。
 すぐに鹿は身をひるがえして、森の奥に走っていった。 地味な茶色の体をした中で、尻と尻尾の裏だけがくっきりと白く、鮮やかだった。
「かわいいわ」
 リーゼが息を弾ませると、ヴァルは乾いた声で言った。
「たぶん野生の鹿じゃないよ。 貴族の誰かが狩りの獲物用に放したんだろう。 まだ子供だ。 ひとりで生きていければいいが」






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