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表紙

金の声・鉛の道
―41―


 春は次第に深まっていき、厚いマントやコートは箪笥の奥に消えた。
 終業時間の鐘が鳴ると、必ず塀際に立ってリーゼを待つ青年の姿は、工場の全員に知れ渡っていた。
 若くて背が高くハンサムだから、なおさら人目につく。 中には通りすがりに視線を送って誘惑する娘もいたが、ヴァルは何の関心も示さなかった。


 同僚のレナーテは、ちらちらリーゼを観察していた。 毎日服装や持ち物を確かめているのだが、全然変わり映えしないので、やがて落ち着きがなくなった。
 とうとう、週末が近くなった六月十七日に、落ち着いて刺繍を仕上げているリーゼへ直〔じか〕に声をかけた。
「ねえ、彼何にもくれないの?」
 不意の言葉に驚いて、リーゼは刺繍針を持ったまま目を上げた。
「え?」
 じれったそうに、レナーテは席を立ってリーゼの横にべったりと座り込んだ。
「あのきりっとしたノッポさんよ。 上等な服着てるじゃない? なのにあんたは、指輪も腕輪もしてこない。 遠慮しちゃダメよ。 プレゼントさせなきゃ! 相手の熱がさめない今のうちに」


 かすかな怒りに不安が混じった。 リーゼは懸命に気持ちを落ち着けて、葉の縁取りを始めた。 そして、さりげない口ぶりで答えた。
「私達、そういう仲じゃないの」
 とたんにレナーテは噴き出した。
「じゃ、どんな仲よ! 手つないで歩く子供同士? ねえリーゼ、あんたがいい子なのはわかってる。 でも、この世は綺麗事じゃすまないのよ。 最高級リンネルのシャツを着てる男が、女工を奥さんにしてくれると思う?」
「私は……」
 反論しようとして、リーゼは言葉に詰まった。 自分の気持ちが、自分で整理されていなかったのだ。
 二人に未来はあるんだろうか。 これまで考えなかった。 考えようとしなかった。 結論は、自分でもわかっていたから。
 レナーテの、がさつだが現実的な意見で、ようやく心が定まった。 リーゼは、すっきりした顔を上げて、微笑した。
「思い出を作ってるのよ。 今、とても幸せ。 それでいいの」








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