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―32―
「優しい人ね。 私はささやかな刺繍職人だけど、あなたといると貴婦人になったような気がする」
顔をうつむけたまま、ヴァルはかすかに微笑んだ。
「君は貴婦人の扱いにふさわしい人だよ。 今にわかる。 きっと周りが君にひざまずく日が来る」
リーゼは困惑して、ぼんやりとヴァルを見返した。 ひざまずくという言葉で連想するのは、今のところ、サイズを測るときの靴屋ぐらいだ。 ヴァルの言葉は謎が多かった。 リーゼの気持ちをかき乱し、しばらく不安にさせるぐらいに。
馬車に乗っての帰り道、二人は御者席の上でぴったりと体を寄せ合っていた。
目の前には赤い雲を引き連れた太陽が浮かび、名残を惜しむようにゆったりと地平線にすべり降りていった。 カケスの黒っぽい影が、鳴き交わしながら暮れなずむ空を横切っていく。 リーゼはヴァルの肩に頭を寄せ、幸福感と切なさの入り混じった半日を思い返していた。
「素敵な別荘ときれいな庭。 魔法にかかったみたいな時間だったわ。 ありがとう、ヴァル」
わずかな手の動きで見事に馬を御しながら、ヴァルは首を回してリーゼに顔を向けた。
「今日で終わりじゃないよ。 夏はまだ始まったばかりだ。 また来ようね。 来週も、その次の週も」
道がどこまでも続けばいいと願ったが、意外にあっけなく町へ着いてしまった。
もう上空は暗くなっていた。 しかし、休日の名残をこれから楽しもうという遊び人たちがごった返して、下宿屋のあるシュテルン通りは普段より混み合っていた。
ヴァルは先に馬車から降りて、リーゼを軽々と抱き下ろした。 お休みのキスを交わすとき、ヴァルの襟元から午後の陽射しの匂いがした。
リーゼは大きな瞳を上げて、ヴァルを真剣に見つめた。
――わかってる? あなたをどんなに好きか。 あなたが遠くから歩いてくるのを見ただけで、胸がどんなに震えるか――
ヴァルの黒ずんだ眼が、哀愁をたたえてリーゼの若々しい顔の輪郭をたどった。
「君は僕の宝石だ。 大切に守るよ。 明日も迎えに行くね。 明後日も、その次の日も」
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