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―29―
「でも心は老人だ。 いや、もう死人に近い」
嫌なざわめきが、リーゼの胸を襲った。 いきいきとして暖かく、立派な筋肉のついたヴァルの体。 だが、魂は押しつぶされ、瀕死の状態なのだ。 いったいなぜ!
「何があったの? ねえ、ヴァル? 私にはどうすることもできないかもしれないけど、言葉に出せば少しは気が晴れるんじゃない?」
そっと問いかけたリーゼに、少しの間ヴァルは答えなかった。 鍵盤を見つめてじっと坐ったまま、彫刻のように無表情を保っていた。
棚にある置時計の飾り人形が、チンチンという涼やかな音を立てて回り出した。 午後の二時を知らせる動作だった。
時報の音で目がさめたように、ヴァルは首を上げ、口元にぎこちない微笑みを浮かべた。
「いや、誰に話しても解決できる悩みじゃない。 勝手に口に出しておいて、説明できなくてごめんね。
ただ、一つだけは言える。 僕の救いは、君なんだ。 君の存在そのものだ」
二人はまだ、お互いの腕の中にあった。 彼の肩甲骨辺りに額をこすりつけて、リーゼは目をつぶった。
嬉しかった。 だが同時に、そこはかとなく寂しい気持ちだった。 何も訊くな、黙って傍にいてくれるだけでいい、と、透明な壁を立てられたような感じがして。
雰囲気が落ち着いてから、リーゼはヴァルの伴奏で、流行歌を三曲歌った。 そのうち一つは彼の知らない曲だったが、メロディーを教えてもらいながら一度、通しでもう一度弾いただけで覚え、きれいに歌と合わせた。
その頃には、リーゼも気がつき始めていた。 ヴァルは相当ピアノが上手だ。 単なるお坊ちゃんの教養程度ではなく、本格的にうまいらしい。
『春浅い日に』を歌い終わって、ヴァルが拍手すると、リーゼも彼に手を叩き返した。
「すてきな伴奏をつけてもらったから、気持ちよく歌えたの。 いい音ねえ。 包まれるみたいに暖かくて」
とたんにヴァルはピアノから指を離し、蓋をバタンと閉めた。 そして、彼にしては珍しいほど荒い声で言った。
「買いかぶりだよ! ちっともうまくなんかない」
驚いて、リーゼは固まってしまった。
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