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表紙

金の声・鉛の道
―28―


 ヴァルの指がゆっくりと鍵盤を伝い、『菩提樹』を奏でた。 リーゼは立ち上がり、ピアノの横に体を置いて歌い出した。
「泉に添いて 茂る菩提樹♪」
「まだちょっと低いか。 半音上げるね」
 ヴァルは並行に手を移し、すぐに弾き始めた。 なめらかに動く指を見るともなく眺めながら、リーゼは気分よく歌いきった。


 音響効果のいい部屋に、メゾソプラノの響きが溶け合って静かに消えた。 目を閉じて余韻を楽しんでいたヴァルは、やがてピアノから手を離し、何度か瞬きした。
「何というか……生まれつきわかってるんだね。 そういう気がする。 どこを強め、どこを伸ばしたらこの曲らしくなるか」
 そこで彼は、珍しく声を立てて笑った。
「たぶん音楽の先生よりずっとうまくね」
 すぐにリーゼは彼の傍に戻り、体をつけて坐った。
「持ち上げるのが上手な人ね。 あなたといると、いつもの倍くらい歌うのが楽しい」
 それは褒め言葉のせいだけではないと、リーゼにはわかっていた。 ヴァル自身が、強い磁力で周囲を引きつけるのだ。 物静かに見えて、彼の内面にはマグマがたぎっていた。 初めて会った日、その目に宿っていた底知れない暗さ、力強さを、リーゼは忘れられなかった。


 淡い笑いを残したまま、ヴァルは顔を斜めにしてリーゼのこめかみにキスした。
 唇はそこから頬に下がり、顎に回って、首筋に落ちた。
 細長く硬いピアノ椅子で、二人は体をよじった姿勢で抱きあっていた。 お互いの腕はまだゆるく遠慮がちだったが、それでも情熱を込めて胴を巻き、そのまま口づけになだれこんでいきそうだった。

 しかし、首と耳にキスを置いた後、ヴァルは顔に戻ることなく、ふわふわに散ったリーゼの髪に頬を埋めた。
「夢見し日々は去りて帰らず」
 憂いを帯びた声が、詩の一節を低くなぞった。
「僕は君の輝きを浴びることはできても、自分から光を出すことはできない。 干からびかけた池みたいなものだ」
 もどかしく不安になって、リーゼは彼の腕の中で身をよじった。
「どうしてそんなことを言うの? まだこんなに若いのに」
「見かけはね」
 骨格のしっかりした指が、リーゼの柔らかい髪を幾度も撫でた。






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