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表紙

金の声・鉛の道
―18―


 いつもの帰り道を逸れて、リーゼは飛びはねるような勢いで左に曲がった。
 空は曇っていた。 雨が降る心配はなさそうだが、風が冷たい。 上着を掻き合わせて前かがみになりながら、まるで冬に逆戻りだと思って歩いた。


 やがて、壊れた壁が点在するリンクが見えてきた。 いつ来ても工事人の姿はない。 もっと早い時間に少しずつ取り壊して、手押し車で廃材を運んでいるようだ。 この区域がきれいに整備されるまでには、当分長くかかりそうだった。
 息を弾ませながらザッと見渡したところ、人影はなかった。 リーゼはややがっかりしたが、まだ来ていないのだろうと思い直した。
――ちょうどいい。 歌の練習をしよう。 十五分ぐらい歌って、それでもイェーガーさんが来なかったら、あきらめて家に帰ろう――
 そう決めて、気持ちがすっとした。 楽しいことは世の中にたくさんあるんだ。
 胸に手を組み合わせて、リーゼは深呼吸を一つした後、歌いだした。 シューベルトのアヴェ・マリアを。
 風が後ろから当たり、ボンネットの紐をはためかせて吹きぬけた。 アルトに押さえた声が空中に舞い、きらめく粒となって拡がっていった。
――大好き。 このメロディーの伸びやかさ、品のいい物悲しさが、すごく好き!――
 自分の声をしっかり聞こうとして、リーゼは眼を閉じた。
 すると、背後からかすかな衣擦れの音が耳に入って来た。
 歌を止めずに、リーゼは体を回して、音のしたほうを確かめた。


 そこには、いつの間にかイェーガーが立っていた。 長いマントが風になびき、ときおり大きくはためいた。
 目が合うと、イェーガー青年は微笑んだ。 その微笑を見た瞬間、リーゼの胸が熱くなった。 笑い出したいような、なぜか涙がにじみそうな、不思議な気分が襲ってきた。
「イェーガーさん!」
 歌い終わったとたんにそう叫んで、リーゼは石の台座から飛び降り、青年に駆け寄った。 嬉しさが素直に全身から湧き立っていた。
 首を軽くかたむけて、イェーガーは優しく言った。
「迎えに来ましたよ。 ご褒美に、また素晴らしい歌が聴けましたね」







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