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表紙

金の声・鉛の道
―131―


 十二月の初め、リーゼとヴァルの二人は、ハルテンブルク家の別荘に近い小さな教会で、静かな式を挙げることになった。
 準備のため、本屋敷から数人の使用人が出向いてきた。 率いてきたのは、忘れもしない、あのイエリネクだった。
 イエリネクは、相変わらず黒一色の服装をしていた。 アン・デア・ウィーン劇場で、リーゼを冷たく突き放したときと同じ格好だ。 だが、布地はずっと上等になっていたし、リーゼへの態度も遥かに丁寧だった。
 部下たちを別荘に置いて、イエリネクは単独で『マリツキー』の部屋にやってきた。 リーゼがドアを開けると、イエリネクは踵をきちんと揃えて一礼し、こもった声で挨拶した。
「アロイス・イエリネクです。 覚えておられることと思います。 今ではお屋敷の家令を任されておりますが、奥様がお気に召さないとおっしゃるなら、いつでも職を辞する覚悟でおります」

 憎まれていると思っているんだ――不思議な気持ちで、リーゼは改めて無表情な男を観察した。 そして、穏やかな態度で自然に応待した。
「ヴァルが信頼している人ですから、私もあなたを信じたいと思います。 中へ入ってください」
 一瞬ためらった後、イエリネクはぎこちなく足を踏み入れて、ドアを閉めた。
「ヴァルは式服の仮縫いに行っています。 もうじき戻ると思うわ」
 言いながら振り向くと、イエリネクは帽子を手に、まだ戸口のすぐ傍に立っていた。 リーゼは気の毒になって、椅子を勧めた。
「疲れたでしょう。 遠慮しないで坐って」
「どうして罰を与えようとしないんです?」
 逆に問い返された。
「わたしは十年前、奥様に申し訳の立たないことをしました」
「それは……」
「いや、命令を実行しただけではなく、とても非礼な態度を取りました」
「後悔していたんですね?」
 胸に暖かいものを感じて、リーゼは淡く微笑んだ。
「だから手紙をくれた。 アイブリンガー邸に行かせて、ヴァルがザビーネさんを尋ねるところを見せたのは、あなたの差し金でしょう?」
 イエリネクは無言だった。 リーゼは更に続けた。
「この間ハルテンブルクの紋章を見て、ようやくわかったの。 あの匿名の手紙の封蝋と同じ模様だったわ」
 イエリネクは眼を伏せ、まるで怒ったように呟いた。
「ご主人様は坊ちゃんから何もかも取り上げようとしました。 でも、奥様まで引き離しちゃいけなかったんです。 ご主人様が亡くなったとき、すぐに決意しました。 間に合うものなら、奥様のお気持ちに賭けてみようと」
 リーゼはゆっくりと手を握り合わせた。 そして、かすかに震える声で言った。
「ありがとう」


 式の当日、朝の内は小雪が降っていたが、昼前には上がり、雲間から太陽が顔を見せた。
 教会には、ヴァルの大学や軍隊の友達が二十人ほどやってきた。 リーゼ側は、まず叔母のグレーテ、元下宿人のバウマン姉妹とアルムート・ボルツ先生、『マリツキー』の女主人ベルタなど、懐かしく親しい顔が並んだ。 もちろん、大切なマネージャーのアイメルトと陽気な御者ビットナーの姿もあった。
 公式な親戚ではないため、サルヴァトーレ司教は出席を見合わせた。 しかし、祝福の長い手紙に、兄の形見である豪華な指輪を入れて、送ってきた。
 友達も来てくれた。 忙しい中、ロベルトとエルフリーデは駆けつけるし、幼なじみのエルミーラ夫妻に、ハイデマリーまで顔を見せた。



 控え室でウェディングドレスに着替えて待機していると、ハイデマリーがそっと入ってきて、見事な刺繍を縫い取りした真っ白な手袋を贈った。
 リーゼは息を止めて見とれた。
「まあ、まあ……なんて美しい! あなたが作ったのね。 なんてお礼を言ったらいいか!」
 抱き合ってお祝いのキスをした後、ハイデマリーは、椅子に座ったグレーテを気にしながら、小声でリーゼに告げた。
「あの、アイブリンガー海軍大将が暗殺された事件ね」
「ええ」
 リーゼの頬に緊張が走った。
「何か知ってるの?」
「犯人はイタリア独立派だってことになってるけど、違うの」
 やっぱり。 リーゼは身震いしそうになった。 内心ずっと気がかりだったのだ。
 ヴァルは静かに見えるが、実はとても粘り強い。 いったんアイブリンガーを憎んだら、とことん嫌いぬきそうだ。 まさかとは思うが、復讐だってするかもしれない……。
 ハイデマリーの声が、低く続いた。
「あの犯人はヨナス・ベルツ。 かわいそうなレナーテの恋人よ」

 ほっとしたのと驚いたのとで、リーゼの足元が、ぐらっとなった。 傍にあったテーブルに危うく掴まって、リーゼは緊張した顔をハイデマリーに向けた。
「それじゃ……」
「ええ、敵討ちだったのよ。 レナーテが『強盗』に殺されてから、ヨナスはずっと落ち込んでいたわ。 あまり気の毒なんで、あなたから聞いた犯人の名前を、彼に教えたの」
「何をこそこそ話しているの?」
 窓辺に腰かけたグレーテが不満そうに大声を出した。
「最近耳が遠いのよ。 もっとはっきり言って」
「世間話よ。 叔母さんの知らない人の話」
 説明してから、リーゼはハイデマリーの手を取った。
「いつかはこうなる運命だったのよ、きっと。 アイブリンガー大将は、人を意のままに動かせると思っていた。 チェスの駒みたいに。 彼はあまりにも傲慢だったわ」
「ヨナスに話さなければよかったかしら。 でも、きっと彼は満足して逝ったと思うのよ」
「そうね、きっとそうだわ」
 二人はしばらく無言で、軽薄だが小鳥のように明るく、悪気のなかったウイーン娘、レナーテ・グルマンを思い起こしていた。


 式の後、賑やかに見送る客たちに手を振って、若い夫婦は冬咲きのバラで飾った馬車に乗った。 目指すは、思い出の黒松荘だった。
 道には雪が降り積もり、馬が蹴散らすたびにキラキラと銀色に光った。
 懐かしい門が見えてくると、ヴァルはまだ止まりきらない馬車から身軽に飛び降りて、自ら門扉を開いた。 それから馬車に駈け戻り、少年のように叫んだ。
「見てごらん! まるで夢の世界だ! 何もかも輝いてる!」
 腕に抱き取られて、雪の上に降りたリーゼは、解放感にひたる夫を優しい眼差しで眺めた。
――あなたは、もう自由。 ピアノの腕もどんどん戻ってる。 改めて音楽家として、みんながあなたを認め、褒めそやす日が近いわ。 いつか二人で演奏会を開きましょうね――
「イエリネクが全部の部屋に暖炉を燃やしたって。 精一杯の大歓迎なんだな。 さあおいで、僕の大事な奥さん」
「ええ、大切なあなた」
 改めて固く手を繋ぐと、ヴァルは体を屈めてリーゼの耳に唇をつけた。 そして、一言一言に想いを込めて囁いた。
「あれは、君だったんだね?」
「え?」
 リーゼが眼を上げると、その瞼にもヴァルの唇が下りてきた。
「アイメルトに聞いたよ。 ヨーゼルブルク先生のところへ行って手紙を書かせたのは、ザビーネ・アイブリンガーじゃなかった。 君だったんだ」
「もういいじゃない、誰だって」
 とんでもないと、ヴァルは激しくかぶりを振った。
「天と地ほど違うよ! 君は僕の救い主だ」
「そして、あなたは私の恩人。 喧嘩したときに思い出しましょうね。 お互いがいなかったら、どうなっていたか」
 二人は声を出して笑い、羽が生えたように軽々と、別荘の中へ駈けていった。


 ビットナーは、満足げな微笑みを浮かべて馬車から降りた。 新しい紋章入りの大型馬車を任されたので、胸がふくれるほど自慢だった。
、立派な家がもらえるらしいし、給料も増えた。 結婚費用を早く貯めて、マルガレーテと所帯を持とう。
 引退したら、俺たちもこの辺に小さな別荘を買って、夏は釣りをしながら過ごしたいな、と夢を馳せながら、ビットナーは重々しく、そしてしっかりと、大きな鉄の門を閉じた。





【完】









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