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表紙

金の声・鉛の道
―130―


 やっと抱擁を解くと、ヴァルは笑いながら、すり切れた茶のコートを脱ぎ、しわだらけのシャツとズボン姿になって、リーゼの前でくるりと回ってみせた。
「すごい格好だろう? トリエステを出たときには普通の服を着てたが、途中の農家で野良着と取り替えてもらったんだ。 尾行されてる気がしてね」
「逃げてきたの?」
 驚いて、リーゼは息を弾ませた。
 ヴァルは大きく首を振り、あっさりと言った。
「違う。 退官してきた」


 退官、という言葉の意味を、ちょっとの間リーゼはわかりかねた。
「それは……軍人を辞めたということ?」
「そう」
 低くメロディーを口ずさみながら、ヴァルはクローゼットに行って紺色の絹のガウンを取り出した。
「君がこれを残しておいてくれて助かった」
「顔を埋めると、あなたの匂いがするから」
「じゃ、擦り切れてもこれを着よう」
 浴室へ行こうとするヴァルを、リーゼは小刻みな足取りで追いかけた。
「もう軍隊に行かなくていいの?」
「うん、みんな引き止めにかかって、大変だったけどね。 徴兵用のポスターに使ってるのに、目玉がいなくなってどうする、なんて言い出して。 僕の知ったことじゃないよ。 勝手に使ったんだから」
 嬉しくてたまらなくなって、リーゼはジャンプして、ヴァルの背中にぶらさがった。
「よかった! もう軍艦が沈む悪夢を見ないですむのね!」


 夜更けになっても、喜びは収まらなかった。
 シャンパングラスを床に置いて、二人は怠惰な猫のように暖炉の前に座り、お互いの腕の中でぼんやりと赤い火を見つめていた。
 やがてヴァルが、ぽつぽつと語り始めた。
「さっきも言ったが、ここから連れ出された後、ずっとアイブリンガー将軍の大きな屋敷に引きとめられていたんだ」
 リーゼはヴァルの胸にもたれたまま、小さくうなずいた。
「それで?」
「婿になれと迫られた。 ひどいもんだ。 君という人がいることを知っていて、平気で言うんだから。
 だから、見張りの兵隊にわざと大声で話してやった。 将軍に決闘を申込むって」
「本気で?」
 ヴァルは苦笑したまま、腕を伸ばして薪をもう一本くべた。
「あと一日閉じ込められたら本当にやっただろうな。
 そしたら、相手は別の手を使ってきた。 あるピアニストに、僕のピアノの評価を書かせたんだ」
 息を殺して、リーゼは続きの言葉を待った。
「彼は、十年前に父が家に連れて来て、僕が演奏家になれるかどうか審査してもらった高名なピアニストだ。
 そのときは、駄目だと言われた。 きっぱりと」
 辛さが蘇ったのか、ヴァルの胸が強く波打った。
「だが、それは嘘だったそうだ。 彼は父に頼まれて、僕の望みを絶つために来たんだ。 その謝礼として、グラーツ大学の教授にしてもらったと書いてあった」
 リーゼは、更に強く彼に寄り添った。
「お父様は、どうしてもあなたを軍人にしたかったのね」
「それだけかどうか……」
 短い溜め息が聞こえた。
「父は昔、役者になりたかったんだ。 でも親に反対され、入隊して間もなく足を失った。 もう芝居はできない。 すっかり暗く頑固になっていた」
 自分の夢をくじかれたから、息子の夢も壊したと? リーゼは暗然となった。
 ヴァルは、うつむいたリーゼの頭のてっぺんにキスして、耳元に囁いた。
「その手紙を受け取ってきたのが、将軍の娘のザビーネだった。 私が希望を取り戻してあげたんだから、感謝してほしいと言われた。
 確かに感謝したさ。 とても嬉しかった。 だが真っ先に浮かんだのは、これで思う存分ピアノが弾ける、君に聞いてもらえる、という喜びだった」
「あなたのピアノが大好き。 何度もそう言ったわ」
「ああ、言ってくれたね。 やっと心から信じられるようになった。
 だから、ザビーネには、こう答えるしかなかった。
『あなたの力添えには心から感謝します。 ですが、それと愛とは別です。 わたしはこれから、妻とピアノの待つ世界に戻ります』」



 後でわかったのだが、海軍は大慌てだったらしい。 退官を引き止めるために、二階級特進で中佐にするとまで言い出したそうだ。
 だが、ヴァルは出世のために軍隊に入ったのではない。 彼にはもともと、れっきとした身分があるし、それに伴う特権もある。 引き止め策は、ことごとく失敗した。



 その週末、カール・フォン・アイブリンガー大将は、皇帝に招かれて宮殿に伺候するため、自家用の馬車に乗って出かけた。
 馬車がレン通りにさしかかったとき、いきなり物陰から黒い服の若者が飛び出してきた。 そして、何事か叫びながら、馬車の窓に砲丸のようなものを投げ入れた。
 一瞬の後、馬車の後ろ半分はザクロのようにはじけ、逃げなかった若者を巻き込んで、周囲の看板や街灯、荷車、庇を、木っ端みじんに吹き飛ばした。






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