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表紙

金の声・鉛の道
―129―


 固く抱き合い、粗い織り目のコートの布地に顔をこすりつけたとき、リーゼの全身から力が抜けた。
――ああ、ヴァルだ。 間違いなく、彼なんだ――
 しっかりした腕力で軽々と妻を支えながら、ヴァルが耳元で囁いた。
「心配かけたね。 もう大丈夫だよ。 全部片付いた」
「本当?」
 嬉しさにぼんやりした顔を上げると、リーゼは子供のように尋ねた。
 愛しくてたまらなくなって、ヴァルはかわいい顔にギュッと頬ずりした。 リーゼは目を細くして笑みを浮かべた。
「ちょっと痛い。 髭が伸びてるのね」
「あ、ごめん」
 ヴァルも嬉しそうに笑った。


 その頃には、口から口へ情報が走って、カフェのほとんどがヴァルの素性を知った。 やがて、自然発生的に拍手が巻き起こり、窓際の席からは祝福の口笛が鳴った。
「いいぞ、お二人さん!」
「ウィーンは、素敵な恋ならいつでも歓迎だ!」
 照れ屋のヴァルだが、今度ばかりはたじろがなかった。 右腕にリーゼをしっかり抱えたまま、左手を上げて周囲に応えた。
「ありがとう。 僕たちは十日前に結婚したんです」
 驚きの声が、低い小波となってカフェ全体に伝わった。
 ヴァルはボーイを呼んで、てきぱきと注文した。
「ここにいる皆さんにシャンペンを」
「かしこまりました」
 ヴァルの身分を知ったボーイは、うってかわって丁重に答えた。


 人々は喜んでグラスを受け取り、若夫婦の幸せに乾杯した。
 リーゼはヴァルを引っ張って席に戻ると、顔を喜びに火照〔ほて〕らせて、友人たちに紹介した。
「ヴァルター・ハルテンブルク。 十年前から知り合いだったの」
 テオが、目を激しく瞬かせながら体を乗り出した。
「もしかして、リーゼを最初にアン・デア・ウィーン劇場に連れてきた人じゃないですか?」
「そうです」
「やっぱり! 僕あのとき、ピアノ弾いてたんですよ」
 テオはなんだか自慢そうになった。 有名になる前のハルテンブルクを知っているのが、嬉しかったらしい。


 改めて乾杯をし直し、祝福と感謝の交換を終えて、リーゼはヴァルと共に席を立った。
「また会いましょうね。 ロベルト、式の日程が決まったら教えてね」
「誰よりも早くね」
 優しく答えると、ロベルトは心から言った。
「いつまでもお幸せに」
「お幸せに!」
 テオとエルフリーデが声を揃えた。


 二人は軽い足取りで、店の裏手に回った。 そこにも、二階の客室に上がる階段があるのだった。
 部屋に入り、錠を下ろすと、二人は改めて激しく抱きついた。
「もう、逢えないかと思った……」
「耐えられないよ、そんなこと」
 熱を帯びた声が返ってきた。
「君はただ一人の家族なんだ。 傍にいてほしいのは、君だけ」
「どうやって無事に帰ってこられたの?」
 事情はほとんど承知だったが、リーゼは知らないふりで訊いてみた。
 ヴァルの唇が、強く横に引かれた。
「ここにいたら、不意に海軍の兵士が来て、連れていかれたんだ。 上官のアイブリンガー大将の家に。
 以前、そこの娘に交際を申込まれたことがある。 すぐ断わったんだが、あきらめなかったらしい。 一人娘で、それまで何でも思い通りになったからだろうな」
「それで?」
 今度はザビーネの思い通りうまく行かなかった理由を、リーゼはどうしても知りたかった。









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