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表紙

金の声・鉛の道
―128―


 火曜日の夜、高級カフェ『マリツキー』の奥テーブルには、次々と華やかな人たちが集まった。
 まるでオペレッタの舞台がそのまま引っ越してきたようだった。 オペラ・ブッファやオペレッタですっかり頭角を現したロベルトが、しゃれたパリ仕立てのロングコートで入ってきた。 腕には、豪華な毛皮つきビロードのマントを優雅にまとったエルフリーデをエスコートしていた。
 やがて、燕尾服に二重マントという正装のテオも来店し、三人でテーブルについて世間話をしているところへ、ようやく集まりのメイン、リーゼが仕事から戻ってきた。
「エルフィ! ロベルトに、テオも!」
 大喜びで、スカートをからげて走ってくる姿は、初めて会った日の初々しい町娘と変わらなかった。
 旧友たち一人一人と抱き合って、リーゼは再会を喜びあった。
「みんな立派になって。 私たちの上には、きっと星がついていたのね」
「その中でも特大の星は君さ、リーゼ」
 テオがウィンクした。 エルフリーデも大きくうなずいた。
「最初からわかってたわ。 私が代役をしていた頃から」
 それから、ひとしきり思い出話が続いた。 駆け出しで、不安が一杯だったあの頃。 希望がみんなを支えていた。 そして、変わらぬ友情も。
「名前がちょっと売れたって、油断できないの。 足の引っ張り合いは相変わらずだから」
 そう言って、エルフリーデはウサギのように大きい前歯を見せて笑った。
「でも、捨てる神あれば拾う神あり。 助けてくれる人もいるわ。
 ねえ、リーゼ、私知ってるのよ。 二年前の『怪盗団』の役、あなたが推薦してくれたんですってね。 あれが売り出しのきっかけになったの。 ずっと感謝してたわ」
「あなたにぴったりの役だったから。 オーディションに受かったあなたの実力よ」
 改めて友達を見回したとき、リーゼは意外なものを発見した。 二人の手に同じデザインの指輪を見つけたのだ。
「ロベルト、それにエルフィ、あなたたち、もしかしたら……」
 二人は、ちょっと気まり悪そうに目を見交わして微笑んだ。
「そうなんだ。 まだ正式に発表してないが、僕たち、来年の春に式を挙げるつもりだ。 招待したいんだけど、来てくれる?」
「もちろんよ! お招きありがとう」
 リーゼがスランプに陥った理由を、彼らは知らされていない。 軽い衝撃を隠して、リーゼは明るく答えた。
「どこでやる予定?」
「郊外の落ち着いた教会で結婚したいの。 今この人と探しているところ」
 微笑を絶やさないようにしながら、リーゼは無意識に考えていた。
――私たちの結婚は書類の上だけ。 神の前で誓ってはいない。 だからこんな宙吊り状態で、先が見えないのかしら…… ――
 エルメンライヒ号は出航しただろうか。 その前に走り書きでもいいから、どんな気持ちの変化があったか、書き残してくれていたら。
 別れから、もう十日以上経つ。 伝言があれば、届いているはずだ。 平静を装いながら、実は毎日毎晩待っていた。 手紙が来た夢を見て、夜中に飛び起きたことも何度かあった。
――ヴァル、迷っているのね。 家柄への義務と、私への責任、ピアノに対する情熱。 あなたがどれを優先しても、私は責めない。 だから、できるだけ早く決めて。 どうかお願い! さもないと私…… ――
「あっ」
 エルフリーデの小さな叫びが聞こえた。
「見て。 あの人、有名な何とか大尉じゃない?」


 ばね仕掛けのように、リーゼの首が回った。 何も知らないエルフリーデが、嬉しそうに囁く声がした。
「彼、ほとんど盛り場には姿を見せないのよね。 もうけちゃった。 生で顔を見られるなんて!
 ねえ、似顔絵や写真よりずっとハンサムね」
「そうでもないよ。 妙な格好してるな。 いつもは制服だからもてるんじゃないか?」
 ちょっと嫉妬したロベルトが、仏頂面で答えた。


 ヴァルは、地味な茶色のコート姿だった。 まるで下男か走り使いのような安っぽい服装だ。 だから、店員に案内してもらえず、入口で止まって、カフェの中をあちこち見回していた。
 誰を探しているか承知の上で、リーゼは動かなかった。 体全体がしびれたようになって、うまく動くことができなかった。
 やがてヴァルの目が、一点を見据えて止まった。 それはもちろん、リーゼの坐る奥の席だった。
 彼の肩が、激しく上下した。 両腕が持ち上がり、大きく差し出された。 張りのある、喜びに溢れた声が、楽団の絶え間ない演奏とがやがやした人声を貫いて、店の隅々にまで達した。

「ただいま、僕のリーゼ!」


 潮が引くように、人々の声が遠のいた。
 何事かと注目する客たちの目前で、リーゼはもがくようにして立ち上がった。
 そして、まっしぐらに走り出した。 やっと会えた夫の腕めがけて。









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