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表紙

金の声・鉛の道
―13―


 手を打ち合わせる音がした方へ、リーゼは勢いよく振り返った。
 壁を壊した後に、ところどころ高く瓦礫が積み上げてある。 その後ろから、ゆっくりと若い男が姿を現した。
 リーゼの眼が驚きで広がった。 その顔に見覚えがあったのだ。 昨日とは違い、今日は茶色のマントにチロル帽という身なりだが、それは確かに、向かいの窓からリーゼを見返していたあの青年だった。
 静かに帽子を脱ぐと、いっそう顔立ちがはっきりした。 撫でつけても額にこぼれてしまう豊かな巻き毛と、艶のある眼。 若木のようにすらりとした体つき。 まるでダビデ像みたいたわ、と、リーゼは思った。
「見事な歌い方だ」
 低めだが曇りのない、きりっとした声が言った。
 リーゼは戸惑い、うまく顎が動かなくなった。
「あ……ありがとう」
「あなたの向かいの部屋に越してきた者です。 いい天気に誘われて、久しぶりのウィーンを見て回っていたのですが、素敵な声につい聞きほれてしまって。 僕の名前はイェーガー、ヴァルター・イェーガーといいます」
 きびきびと自己紹介されて、リーゼはいっそう当惑した。 頬が赤くなっていくのが、自分でも感じ取れた。
「ええと、初めまして。 リーゼ・シュライバーです……」
 イェーガー青年は、落ち着いた足取りで斜面を踏みしめ、リーゼに近づいてきた。
「すみません。 歌の邪魔をする気はなかったのですが、素晴らしいものを聴いた後には拍手するのが当然だと思って」
「素晴らしいって……ただの酒場の流行歌ですけど」
「確かに。 でもあなたは、それを歌い流さなかった。 歌詞の通りに気持ちを込めて歌っていた。 恋人たちの出逢いと別れが目に見えるようでしたよ」


 どう応じたらいいかわからずに、リーゼは立ち往生していた。 下町の若者たちのからかいなら陽気に言い返せる。 だが、このいかにも育ちのよさそうな青年の口から出た褒め言葉は、どこまで本気なのか、それともただのお世辞なのか、見極めがつけにくかった。

 三歩分ほど距離を置いて、イェーガー青年は足を止めた。
「そろそろ日が沈みますね。 寒くなってきた。 歌の練習はそれぐらいにして、もう帰りませんか?」
 リーゼは慌てて森に目を走らせた。 いつの間にか急激に日は落ちて、もう光はほんの僅かしか残っていない。 木々は昼間の緑を失い、灰色の影になりかけていた。
「そう……ですね。 うちに戻ります」
「ご一緒しましょう。 すぐ近所ですから」
 ごく自然に、イェーガーは緩い坂を降り出したリーゼの横に並んだ。








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