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表紙

金の声・鉛の道
―125―


 いたたまれない……?
 その言葉で、リーゼは確信した。 ヨーゼルブルクは、嘘の評価を下したのだ。 そして、良心の呵責に苦しんできた。 気さくで穏やかなヨーゼルブルクにそんな思いをさせた相手は……。
「頼まれたんです」
 ヨーゼルブルクは、そっとピアノの蓋を閉めた。
「たった一人しかいない息子に、演奏家などという浮き草稼業をやらせるわけにはいかない。 家を継がせたほうが彼のためだ、と言われた。 わたしもそう思いました。 そのときはね。
 ヴァルターくんは、線の細いデリケートなタイプに見えた。 プロの演奏家は、あなたも知っての通り、神経質すぎては務まりません。 聴衆の前ではあがってしまうだろうし、舞台裏での足の引っ張り合いに耐えられないでしょう」
 老いて静脈の浮き出た手が、蓋の彫刻をぎこちなくたどった。
「わたしの見立ては間違っていました。 軍人になった彼は、驚くほど勇敢で、沈着冷静だそうです。 窮地に立つと、開き直って活躍できる性格だったんですな」
「そうです、そういう人です」
 リーゼは囁くように答えた。
「でもそれは、あきらめているせいもあると思います。 自分の値打ちを自分で認められないんです。 だから命を粗末にします」
「ああ」
 低くうめいて、ヨーゼルブルクは椅子に腰を落とした。
「それで、今更わたしにどうしろと?」
「書いてください」
 そう言いながら、リーゼはバッグから便箋を取り出した。
「ピアノの才能がないという判定は偽りだったと、父上に強制されてやむなく言ったが事実ではないと、一行でもいいですから、ここに書いて」



 ヨーゼルブルクは、二度書き直した。
 三度目の紙をじっくり読み返してから、彼は立ち上がって、リーゼに手渡した。
 押し頂くように受け取ると、リーゼは真心を込めて言った。
「ありがとうございました」
「礼を言われることじゃない」
 書き物に疲れ、充血した目を伏せて、ヨーゼルベルクは低く答えた。
「これで、長年の重荷が肩から下りましたよ」









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