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金の声・鉛の道
―124―


 扉の内側にあったのは、小さな玄関の間だった。 五歩も進むとすぐ、二階へ続く階段がある。 ヨーゼルベルクはせかせかと右へ曲がり、帽子掛けのついたドアを開いた。
 そこは、音楽室らしかった。 グランドピアノが床面積の半分を占領し、一本足の丸テーブルや揺り椅子には、溢れるほど楽譜が積み重ねてあった。
 老人は、困った様子で部屋を見回した。
「ええと、ここへ坐ってください」
 四角い椅子に載った本を奥の棚に置き替えてリーゼに勧めた後、ヨーゼルブルクは自分用に丸椅子を引いてきた。
「飲み物はと……絞りたてのミルクはどうです?」
「いえ、お構いなく。 今日お訪ねしたのは、ある人の人生がかかっているからなんです」
「人生?」
 丸椅子に腰を下ろすと、ヨーゼルブルクは瞼の垂れ下がった眼をしばたたいた。
「わたしでお力になれるのかな?」
「はい」
 リーゼは手を握りしめ、上半身を乗り出した。
「覚えておられますか? 八年前、海軍のハルテンブルク中将に招かれたことを」


 老ピアニストの顔が、はっきりわかるほど強ばった。 明らかに、心当たりがあるようだった。
「あなたが言うのは、つまり、わたしが若いヴァルター・ハルテンブルク氏のピアノを聴きに行ったときのことですか?」
「はい。 ただ聴きに行ったというより、評価しに行かれたんですよね? そして、どんなに練習しても一流にはなれないと言われた」
 不意に、ヨーゼルブルクは立ち上がった。 体はリーゼの正面にいたが、顔は斜めにそむけられていた。
「あれは……何と答えたらいいか」
「私は先生の演奏を尊敬しています」
 顔を上げて、リーゼは静かに訴えた。
「私だけでなく、ヨーロッパ中の耳ある聴衆はすべて、先生が超一流の音楽家、尊敬できる方だと知っています。
 でも私は、ヴァルの演奏も聴いたことがあります。 あの洗練された艶のある音、耳に残る感動的な弾き方が二流以下とは、申し訳ないですが、信じられません」
 ヨーゼルブルクは、リーゼから視線を外したまま、ピアノの前に行って蓋を上げた。
 そして、小さい音でショパンの雨だれを、短く奏でた。
「彼は、この曲を弾いたんですよ」
 呟く声は、力を失って聞こえた。
「よく覚えています。 記憶に焼きついているといってもいい。
 素晴らしい演奏でした。 派手とはいえないこの曲を、本当にしっとりと、そして伸び伸びと音にしていました。 これほどの才能を、わたしの一言でつぶしてしまうのかと思うと、いたたまれないぐらいでした」









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