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表紙

金の声・鉛の道
―122―


 伝言を書き終えたとき、時計は二時半を回っていた。
 真夜中だが、目はくっきり冴えていた。 頭も興奮していて、とても眠れる状態ではない。 本棚に近づいて、思いつくままに、リーゼは楽譜を取り出した。
 初めて会った年、うるわしい夏の日々に、ヴァルが持ってきてくれた楽譜たちだった。 中にはところどころ線が引かれ、走り書きの字が躍っていた。
 指でたどると、声が聞こえた。
『リタルダンド。 だんだん遅くという意味だよ。 でもあまり気にしないで。 君は充分まろやかに幅を取って歌ってる。 もうちょっと大きく喉を開いてもいいかな。 遠慮しないで。 ほら。ドイツ語で堂々と書いておくね。 イタリア語はイタリア人が使えばいいさ』
 そのときの笑い声まで蘇ってきた。 二人は寄り添って、窓辺に座っていた。 微笑み合い、見交わした瞳に、夏の輝きがあふれていた……。
「あの日々は、ヴァルと私だけのもの」
 唇を噛みしめて、そっと優しく楽譜を棚に戻した後、リーゼは独り呟いた。
「私達だけの、ひそやかな夏。 これから何が起きるにしても、あの光は、あなたには決して訪れないわ、ザビーネ・アイブリンガー」


 まだ夜の明けきらない六時過ぎ、ドアに小さなノックがあって、下から紙が差し込まれた。
 テーブルに肘をついて物思いにふけっていたリーゼは、すぐに気付いてドアに駆け寄り、もどかしく開いた。
「ビットナー!」
 階段を降りかけていたスマートな姿が振り返った。
「起きてらっしゃったんですか」
 小さな紙を拾い上げると、リーゼは素早く目を通した。
「バーデン……サンクトベルテン五の十一……ヨーゼルブルクさんはここにいるのね」
 傍まで戻ってきて、ビットナーは付け加えた。
「はい。 貴族の館の離れに住まわしてもらっているようです。 八時にもう一回迎えに来ようと思ってましたが、支度なさってるんなら」
「いつでも出かけられるようにしておいたの。 それにしても、こんなに早くよく調べたわね」
「知り合いに競馬のノミ屋がいるんですよ。 五時に行って叩き起こして、五グルデンで情報聞き出してきました」
 ビットナーは愉快そうにニヤッと笑った。
「感謝するわ! 入って。 眠気ざましと朝食用にコーヒーを入れるところだったの。 ウズラパイの残りがあるから、一緒にさっと食べて、七時に出発しましょう」
「おお、ありがとうございます!」
 朝からご馳走にありつけそうなので、ビットナーは目を輝かせて帽子を取った。









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