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表紙

金の声・鉛の道
―111―


 その夜遅く、夕方の雨に濡れた石畳を、馬車は飛ぶように走った。
 週末だから給料を貰う人間が多いし、明日は日曜日で休みなので、歓楽街は普段より賑わっていた。 酔っ払いがよろめいて道の真ん中にはみ出てくるのを、ビットナーは巧みによけ、時には怒鳴りながら馬を前進させた。
 薄暗い馬車の中で、リーゼはきらびやかな衣装の裾が汚れないよう、まとめて手に持っていた。 着替える時間を惜しんで、私服をバッグに詰めこんで楽屋口を飛び出したのだ。
 三日間の休暇といっても、往復の距離を考えると実質二日しかない。 新婚の夫といられる時間は、一分一秒が貴重だった。
 ファンから貰った金色の小箱を膝に抱いて、リーゼは微笑んだ。 ヴァルはあまり甘い物が好きではないが、ハッカのボンボンは例外だ。 寝る前のワインと一緒に二人で食べよう。 そう思うと心が弾んだ。


 賑やかな『マリツキー』の横で馬車を降りると、リーゼは真っ先に高級アバートの窓を見上げた。
 ガラスは闇に沈んでいた。 灯りは見えない。 馬車の音を聞きつけて開く気配もなかった。
 心拍が一つ飛ばして打った。 御者席から降りて持ち物を下ろしていたビットナーが、身を屈めて早口で尋ねた。
「先に上がって様子を見てきましょうか?」
「お願い」
 思わず語尾が震えた。



 馬車をそのままにして、ビットナーは影のようにアパートの玄関に消えた。
 リーゼはフードで深く顔を覆い、馬の横にたたずんだ。 二頭立ての馬は、ときどきブルッと鼻息を立てながら、おとなしくリーゼの盾になっていた。
 間もなく、『マリツキー』の派手な出入り口から女主人のベルタが現れ、小走りにやってきた。
「リーゼ?」
「ええ」
 囁きで答えると、ベルタはすぐ傍に並んだ。
「イェーガーさんが戻ってきてたのね」

 イェーガー。 それはヴァルが以前名乗っていた名前だった。 リーゼは血の気の引く思いで、緊張した顔のベルタを見返した。
「ええ……」
「夕方のね、ええと五時ぐらいに、連れていかれたの。 こんな大きな海軍さん二人に挟まれて」
 リーゼはよろめいた。 焦点が定まらなくなって、馬の黒い影が大きく揺れた。










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