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表紙

金の声・鉛の道
―104―


 午後は珍しく予定がなかった。 張り切って出発するビットナーを見送った後、軽い昼食を取ってから、リーゼは楽譜の整理にかかった。
、それは、波立つ気持ちを少しでも鎮めるためだった。 ヴァルはまだエルメンライヒに乗って航海中だろうか。 ビットナーには充分な旅費と滞在費を持たせたが、ちゃんとヴァルを見つけて手紙を渡せるだろうか……。
 こんなとき、集中できるのは音楽だけだった。 リーゼは、次に歌う予定のシューベルト歌曲集にメモを書きこみ、小声で歌ってみては修正していった。


 夕陽が窓を染める頃になって、ノックの音がした。 横柄なドンドンという響きだ。 嫌な予感を味わいながら、リーゼはデスクの前を立って、戸口へ向かった。
 廊下にいたのは、制服の警官と山高帽を被った刑事だった。 刑事はデーデキントと名乗り、中でお話をうかがいたいと切り出した。
 気持ちをしっかり保とうと自分に言い聞かせて、リーゼはまっすぐな瞳を彼に向けた。
「何についてのお話でしょう?」
 刑事は咳払いし、声量を落とした。
「実は今朝早く、リヒャルト通りの家で騒ぎがありまして、若い女性が殺害されました」
 やはりその件だ。 リーゼは首筋に刃物を当てられたような気がした。
「それが私と何の関係が?」
 デーデキント刑事は慌てて、垂れた口髭に手をやった。
「いや、関係あるかどうかは今の段階ではわからないのですが」
 そこで一段と声を低め、ほぼささやき声になった。
「タレコミがあったんですよ。 つまり、密告の手紙なんですが。 それで、一応お話を伺わわなければと」


 また密告……! リーゼは、恐怖と怒りを同時に感じた。 
 一方で、ほっとした。 ハイデマリーは約束を守って、リーゼと共に駆けつけたことを話していないのだ。 医者や看護師からも、刑事は何も聞き出していないようだった。
 当惑した表情を保ったまま、リーゼは静かに言った。
「ここは女一人の部屋です。 ドアは開けたままにしておいてください」
「わかりました」
 遠慮がちに、二人の警察関係者は帽子を脱いで、居間に入って来た。

 椅子に座るとすぐ、デーデキントは用件を切り出した。
「被害者は、レナーテ・グルマンという二十五歳の女性です」
 リーゼは青くなって胸を押さえた。 芝居をしなくても、思い出して本当に気分が悪くなった。
「レナーテ…… 知ってますわ。 以前、刺繍工場で一緒に働いていました」
 リーゼが知り合いだと隠さなかったのと、青ざめた様子が自然だったからだろう。 警官たちの表情が柔らかくなった。









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