表紙
 part 4



 山から戻ったときと同じように、初めのうち2人は一言も話さなかった。 運転席に座った士朗は、車を出さずにしばらく座ったままだった。
  麻貴も黙っていた。 何を言ったらいいかわからないし、なぜか何も話さなくても気詰まりではなかった。
  やがて、士朗が手を伸ばして麻貴の髪に触れた。 遠慮がちな、ぎこちない手つきだった。 麻貴は不思議な気分になった。 たしか、クールな女たらしだと噂されていなかったか?
  麻貴が逃げないのを知ると、士朗は両手でそっと顔をはさんだ。 そして唇を近づけた。
  しかし、顔が重なる寸前に、ふっと離れた。 麻貴は眼をあけた。 士朗は唇を噛んで、不意に車を発進させた。
「どこへ行くの?」
  麻貴がたずねると、士朗はぶっきらぼうに訊き返した。
「ラブホと言ったらどうする?」
  麻貴は顔をうつむけて、そっと左の手首を握った。 そこはいつも時計のベルトかブレスレットで隠している。 短いが、明らかにリストカットとわかる傷跡があるからだ。
  もう悪夢を忘れよう――麻貴ははっきりと決めた。 普通の若い女の子として、付き合って別れて、人生の免疫をつけよう。 そうすれば、このきれいな顔を見ただけで、穴に落ちたような苦痛を味わわなくてすむようになる。
「ホテルより、うちに来ない?」
  麻貴は、できるだけ当たり前に声を出した。

  部屋に入って照明をつけると、士朗は今度こそ麻貴にキスした。 上手なキスと言うんだろうな、と、初めての麻貴は思った。
  その部屋は、あまり17歳の若い娘らしくない飾り付け、というより、ほとんど飾りのない空間だった。 ベッドカバーは無地のプルーで、カーテンはネイビーブルー。 テーブルとクッションはベージュ。 唯一女らしいと言えば、壁にかけた子猫の絵ぐらいのものだが、その絵も、従姉妹が描いてくれた誕生祝いで、麻貴が望んで買ったものではなかった。
「何もかもおまえにやるよ」
  気がつくと、耳元で士朗がささやいていた。 奇妙な言葉。 愛の告白と取れないことはなかったが、いったい私が何を望んだというんだろう、と麻貴は不思議に思った。

  それから週に一度か二度、士朗は麻貴の部屋を訪れるようになった。 もちろん澄子には内緒だ。
  ふたりは愛の言葉を交わさなかった。 口にするのは、あきれるほど平凡な身の回りのことだけだった。
  自分から士朗に触れたり抱きついたりすることはなかったが、今では麻貴は自分の心を知っていた。 これは確かに恋だ。 期間限定だけど、本気で彼を好きになっていた。
  体がひとつになった後から心を惹かれた。 順番が逆だと思う。 普通はだんだん盛り上げていく恋愛が、たぶん次第にフェイドアウトしていくんだろうと予測がついた。
  でも、やり直しはきかない。 前へ進むしかなかった。
 
  士朗は恋がうまかった。 麻貴が遅くなって疲れて帰ってきたときに、さりげなく好きなダージリンを入れるとか、旅先で見つけたと言って、愛くるしい子馬のお守りをくれるとか、見たかったコンサートの切符をいつの間にか手に入れているとか……
  冷たいなんて嘘だったな、と麻貴は思った。
 
   敏腕マネージャーの澄子が、まきの変化に気づかないわけはなかった。 ふたりが秘密の関係に入ってから約1ヶ月後、士朗がノックしてドアを開けさせた直後に、澄子が滑り込んできた。
  燃える眼でふたりを代わる代わる眺めながら、澄子は喉に詰まった声を出した。
「見損なったわ。 まき、あんたがこんな不良とできちゃうなんて!」
「紹介したのは、おばさんだよ」
  士朗は平然と答えた。 澄子は髪をかきむしった。
「いくら手の早いあんただって、この子は落とせないと思ったのよ。 もうパパラッチがかぎつけたらしいから、手を打たなくちゃ」
  そこで澄子は新たな気がかりに思いあたった。
「そうだ、こうなってからどの位経つの?」
「1ヶ月」
  小声でまきが答えると、澄子は奇妙な表情になって士朗を見た。 士朗はまったく無表情のままだった。
「嘘でしょう……」
  にわかに澄子はあわて出した。
「冗談じゃない。 子供でもできたら」
「心配ない。 ちゃんとやってる」
「あんたは信用できない」
  澄子はぴしゃりと言った。
「まきが実力派でアイドルじゃないのがまだしもだけど、半同棲はまずいよ。 半同棲は!」
  士朗の上着をつかんで、澄子はきっぱりと言い渡した。
「まきのことを少しでも考えるなら、一ヶ月まるまる会わないでいなさい。 それから、今夜はおたくの事務所のサイちゃんの車で帰ってもらうわよ。 タレコミがあって、外と裏でカメラがねらってるから」
 
  幸い、士朗はゴシップ雑誌に感づかれなかった。 しかし、仄めかす記事は掲載された。 好きな人いますか? と歌番組で質問されて、まきは表情を変えずに答えた。
「いません。 恋愛なんて、いつになるかわかりません」
  まきの日ごろの固さは有名なので、司会はなんとなく納得して、それ以上突っ込まなかった。
 

 士朗と連絡が絶えて半月が過ぎた。 ときどき麻貴の手は、無意識に電話に伸びることがあった。 冬の深夜に帰ってきて、ぽつんとテーブルの前に座ったとき、ついに我慢できなくなって夜の街に忍び出て、公衆電話のボックスに入ってしまったことがあった。
  二回の呼び出し音の後、すぐに士朗が出た。
「もしもし」
  麻貴は思わず受話器を握りしめた。 会いたい、と一言いえばいい…… でも、もう終わってるんだ、と突然麻貴は思い当たった。 士朗の相手は、長持ちして一ヶ月が限度と聞いた。 はっきりとお互い口に出さなかったが、澄子に見つかったあの夜が、別れだったのだ。
  もう一度士朗が、
「だれ?」
  と尋ねた。 麻貴はそっと指先で電話を切った。

  あきらめるのは慣れているんだ、と麻貴は思った。 友情も幸福もすべて失った小学5年生の夏から翌年の初春にかけての日々で、麻貴は哲学的になり、世界をうとましく感じるようになった。 転校しなかったらおそらく命を失っていただろう。 それほど地獄のいじめが連日続いていた。
 
  ある日、不意に誰も話しかけてこなくなった。
  それが始まりだった。 小さなものが次々と消えた。 ジャーペン、消しゴム、ハンカチ… ノートの裏に『しね!』と鉛筆で書かれたが、先生に見せる前に消されていた。 大人がそばにいると、みんな普通に話してくる。 だから、麻貴の訴えを真面目に取る先生は一人もいなかった。 終いには、麻貴のほうが甘ったれの嘘つきという眼で見られるようになった。
  教室中が、12才の少年に操られていた。
 
  体操着に着替えて体育館でバスケットボールの授業を受け、戻ってきてみると、服がなくなっていたことがあった。 一緒に探してくれた先生が、校庭裏の溜池に投げ込まれているのを見つけた。 さすがに校内で問題になって、麻貴の両親にも事態の深刻さがわかり、転校できるきっかけになったのだが、お気に入りのピンクのシャツがアオミドロにまみれて緑色に変わって、池の中で揺れている光景は、今でもたまに夢に現れるほど強烈だった。
  その日以来、麻貴は一切ピンクを身につけなくなった。
 
 二ヶ月が過ぎ、春の気配が漂い始めた。 いつものようにきちんとファンレターを整理し、印刷した書面にひとこと感想とサインを書き加えて返信用葉書を作っていた麻貴は、一通の封書を手にしたとたん、火傷したように取り落とした。
  太い黒々とした宛名が表にくっきりと書かれ、その裏には同じ字で、こう記してあった。
――田宮征志郎――
 


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