表紙
 part 5



 その晩、麻貴は悪夢にうなされて何度も飛び起きた。 田宮征志郎の冷酷な顔が夢魔として現れ、麻貴は心臓が破れそうに鼓動するのを感じながら、闇の中で深呼吸した。
  しかし、朝になって目を覚ますと征志郎の幼な顔は水しぶきを浴びた鏡のようにゆがみ、はっきりと思い出せなかった。 今の麻貴に言えるのは、征志郎が美しかったことと、異様に残酷だったことだけだった。
  背がすらりとして成績がよく、担任の先生に愛されていた田宮少年。 その彼に、生け贄として選ばれたのが、麻貴だった……
 
  手紙の封筒を切る勇気は、なかなか出なかった。 床に落ちている白い物体を拾う力さえない。 といって、捨てる元気も、まして踏みつける気概なんか、どこからも生み出せなかった。
  まだ怖いんだ――そうわかって、麻貴は自分が情けなくなった。 あれから6年。 中学、高校と友達に恵まれた。 後ろを振り向かずに生きてきたのに、なぜ今になって手紙なんて……
  澄子が車で迎えに来る間際になって、やっと麻貴は白い封筒を拾い上げ、思い切って指で封を切った。
  中から、一枚だけ便箋が出てきた。 横書きの紙に、2行書いてあった。
『活躍、テレビで見ています。 なつかしかったので、12日のサイン会に行きます。 よろしく』
  読み方によっては、背筋の寒くなる内容だった。 まさかあの田宮征志郎が、突然まきのファンになったわけではないだろう。 だとすると、〔荒らし〕目的か? いや、そんな目立つことをする子じゃなかった。 もっと計画的で、大人たちにばれないよううまく立ち回っていた。
 
  12日のサイン会…… それは、今日だった。

  目黒の駅前にある《クレッシェンド》というCD店に、麻貴たちは2時少し前に到着した。 前から宣伝していたので、店の前にはファンがすでに並びはじめ、隣りの店先まで侵食していた。
  麻貴が青いバックルのついたローライズのパンツ姿で車から降り立つと、ささやきとも小さな悲鳴ともつかぬ、独特のざわめきが広がった。
「きれい……」
  驚いたような声が聞こえる。 テレビのイメージとちがったのだろう。 麻貴は画面に映ると、実際より子供っぽく見えるらしかった。
  だが今のまきには、ファンの声が沈黙よりも恐ろしかった。 その中に田宮がいるかもしれないと思うと、首が強ばって振り向くことができない。 せめて口元を懸命にほころばせて歓迎に応えるしかなかった。
  店内には、派手にポスターで飾ったパネルの前に椅子と机が用意されていた。 ひとしきり、報道陣のフラッシュがたかれ、それからサイン会が始まった。
  今度のサイン会は、あらかじめ新曲と森住まきの写真が印刷された色紙が積み上げられていて、それにその場でサインして渡すという形を取っていた。 ファンはほぼ男女同数で、中には購入したCDのジャケットを差し出したり、子供のシャツに書いてもらおうとしたりするファンもいた。
  麻貴はきちんとした性格通り、手早く、しかし粗末にならないように注意しながらサインを続けた。 前に男性が立つたびに胃がぎゅっと縮む。 眼を上げて安心する繰り返しで、いつしか50分ほどが過ぎた。
「お、雨だ」
  サインをもらって立ち去ろうとした若者のひとりが、空を見上げて声を立てた。 何気なくその方向に目をやった麻貴の動きが、止まった。
  ストッパーをかけて半分開いたままの戸口から入ってきたのは、士朗だった。 ブーツカットのジーンズで、まったくの普段着だ。 帽子、眼鏡、共になく、整った顔を外気にさらしていた。
  澄子もすぐ彼に気付いた。 そして立ち上がり、腰に手を当ててにらんだ。
  しかし、士朗はその無言の威嚇にまったく注意を払わず、まっすぐ来て、大分短くなった列の最後尾に並んだ。
  まきの鼓動が不規則に打ち始めた。 会いに来てくれた――息まで小刻みに速くなってきた。 早く彼にたどりつきたくて、麻貴はしびれた指を必死で動かした。
  そしてとうとう、列は尽きた。 残っているのは士朗ひとりになった。 まだ店の内外にちらほらと残ってながめている人たちがいたが、もうサインは終わっていた。
  まきが思わず笑いかけようとしたとき、士朗はピンクの紙をポケットから出して広げ、平板な声で言った。
「田宮征志郎さんへって、書いて」
  まきは、彼の眼をただ見つめた。 そして、電光のように悟った。
  それからのことは、覚えていない。


  気がついたら、店の奥に寝かされていた。 そばには澄子だけがいて、守護天使のように麻貴の上半身をかかえていた。
  過労で貧血を起こしたと、澄子が回りに説明したらしい。 彼女はいつも通り陽気で落ち着いて見えたが、麻貴の額に濡れたハンカチを置く指はふるえていた。
  麻貴は、なぜか1つのことしか頭に浮かばなかった。 士朗の苗字は須藤だ。 いつもシロとか、スドーとか呼ばれている。 田宮じゃない。 絶対田宮じゃないはずだ!
  発作的に澄子の袖をつかまえて、麻貴はつぶれた声で尋ねた。
「シローが今、田宮って……」
  麻貴の顔を見ないで、澄子は小さく答えた。
「親が離婚したの。 あいつ、母親についてったから、田宮から須藤に苗字が変わった」
  かすかな望みの糸は切れた。 麻貴は眼をつぶり、自然にふるえてくる体をもてあましていた。

  医者が鎮静剤と増血剤を打って、帰ることになった。 車の中でもまきは小さく震え続けていたが、澄子は何も聞こうとしなかった。

  部屋に入るとき、なかなか足が進まなかった。 物の少ない部屋のそこここに、士朗の亡霊が立っているような気がする。 何度も来ているから、思い出が焼きついていた。

  面白がっていたんだろうか。 それとも犠牲者が自分と同じ業界に入ってきたことへの好奇心? 麻貴にはわからなかった。 わかるはずがない。 昔から、田宮征志郎が何を考え、たくらんでいるかなんて誰にも理解できなかった。
  だが、彼が初めから麻貴に気付いていたことは、百パーセント確かだった。
 
  どうやっても眠れない。 睡眠導入剤を使うのは嫌だった。 くせになりそうだから、絶対に。
  3度深呼吸してから、携帯電話を取った。
  夜中の2時過ぎだった。

  呼び出し音が数回鳴り、留守電に切り替わった。 麻貴はすうっと息を吸い込んで、話し出した。
「五十嵐麻貴です。 昔のことは訊きません。 ただ、今日どうして来て、本名を名乗ったかだけは教えて。 ファックスでもメールでも何でもいいから」
  かすかな音がした。 留守電にしてあったが、本人がじかに聞いていたのだ。
  やがて、低い声が返ってきた。
「五十嵐は、いい子だった。 人気者で、友達がたくさんいた。 親は仲良しで、兄弟もいて、俺にないものを、全部持ってた。
  親友だと思ってた横山康晴が、五十嵐を好きだと言ったとき、俺は切れた。
  ねたみだ。
  自分が何やってたか、ほとんど覚えてない。 勝手だと思うだろうが、思い出さないようにしてると、ほんとに記憶から消えるんだ。
  ただ、服は覚えてる。 薄いピンクの、きれいなTシャツだったよな。 あれ、手に持ったんだ。 すごく触ってみたくて、我慢できなかった。 そこへ男子が2人入ってきてからかわれて、気がついたら池に投げ込んでた。
  後になってからわかることってある。 俺も中学2年のときにやっとわかった。 ねたんでたのは五十嵐じゃなくて、五十嵐を好きだと言った横山の方だったんだ。 たぶん五十嵐が、俺の初恋だったんだ……」
  汗ばんだ手を固く握りしめていて、痛いと思って見ると、中指の爪が折れていた。 麻貴は不意に携帯電話を叩きつけたくなったが、続きを聞きたい気持ちの方が勝った。
「あのころ、うちの両親は離婚寸前で、毎日壮絶に喧嘩してた。 家に帰るのが嫌で、近くの叔父の家に逃げて、勉強にかじりついていた。 成績で、プライドを持ちつづけたくて。
  一番いやだったのは、両親が俺を押し付けあったことだ。 どっちも引き取りたくなかったんだ。 母親は再婚したかったし、親父は自由に遊びまわりたかった。 
  こういうことだ。 俺は歪んだ、どうしようもない子供だった。 ギターがなかったら、今ごろはスピード〔=覚醒剤〕であの世行きになってただろう。
  それでも良心のかけらぐらい残ってたんだな。 五十嵐が男恐怖症になってると聞いて、俺のせいだと思った。 だから、行くことにしたんだ」
「なぜ抱いたの?」
  麻貴の声は、木枯らしのようにわびしかった。
 一瞬、間があいた。
「誘ってくれたから。 言っただろ? 俺は自分のしたことをほとんど覚えてないんだ。 そんなに気がとがめてるわけじゃない」
「じゃ、なぜサイン会に来たの? わざわざ埼玉のコンサート会場から来て、正体をばらすようなこと」
「ちゃんと別れるため!」
  声がひび割れた。
「俺は田宮だ、もうこれっきりだとわからせるため。 わかった?」
「もうとっくに別れてるじゃない。 澄子さんが来た日に。 駄目押しすることない」
「やめろよ……」
  この声は何だろう――麻貴は心臓がびくっと跳ね上がるのを感じた。 まさかと思うが、この上ずった声は…
「ダイナスティーの連中がさ、森住まきっていい子だな、って言ってたんだ。 それ聞いたらなんかさ…… 俺が俺じゃなかったら、ずっと一緒にいれたのにってさ…… あきらめるには、ああするしかないって……」
  ずっと一緒に…… 麻貴はゆっくり床に座り込んだ。 この言葉こそ聞きたかったんだと、聞いて初めてわかった。
「まだ私、直ってないよ」
  喉にかたまりをつかえさせたまま、麻貴はつぶやいた。
「免疫つくまで付き合って」
「やだ!」
  ついに、電話の向こうは完全な涙声に変わった。
「もう麻貴の顔見れないよ!」
  苦しんでいるんだ、と麻貴は悟った。 6年半の恨みが、初めて心の中で薄皮をはぐように刺を失いはじめた。
  もう憎まないでいいんだ。 麻貴は電話を持ち替えて、静かに尋ねた。
「好き?」
  答えが聞こえるまで、麻貴は息を詰めて待った。
「……うん」

〔終〕







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