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表紙

薫る春  64



 父が帰った後、紗都は江田と、のんびり鯉が泳ぐ庭園を歩いた。



 この二日間、紗都は吉崎邸に泊まっていた。 那賀子夫人に頼まれたのだ。
「杉本さんの計画はね、夜になったら蔵に火をつけることだったの。 自分でも言っていたでしょう?
 そうやっておいて、私が一人暮らしでは心細いから親戚が代わる代わる上京して守るという形にして、じわじわと乗っ取るつもりだったようよ」
「奥さんに何かする気じゃなかったんですね?」
「そこまではね。 ねえ紗都ちゃん、奥さんっていうのは止めて。 那賀子さんと呼ばれるの、私好きだな」



 私も那賀子さんって好きだ――池のほとりに立ち止まり、食料庫で見つけてきた麩〔ふ〕を千切って投げると、赤・黒・金色の鯉たちが波を立てて集まってきた。
 袋から出すのを手伝いながら、江田が訊いた。
「鯉の餌がどこにあるか、わかんないんだって?」
「うん、全部杉本が仕切ってたから。 那賀子さんと二人で家捜ししちゃった。 いろんな買いだめが見つかって、面白いの。
 奥……じゃない那賀子さん料理上手だよ。 昨日も今日も手料理ごちそうになっちゃった」
「伯母さん紗都ちゃんと気が合うみたいだな」
「うん。 年の離れた友達かな。 ていうか、年の離れたお母さんみたいな気がする」
「俺泊めないで、紗都ちゃん一緒に泊まって〜って言うぐらいだからな」
 江田がからかうと、紗都はちょっとむきになった。
「江田っちが遠慮して来なかっただけやん。 那賀子さんぜんぜん構わないって。 今日から新しい家政婦さんが来て時間できるから、今夜おいでよ……って、自分の家みたいに言ってるけど」
 江田は照れた感じで頷き、自分も麩を掴んで遠くに投げた。
 縁石にチョコンと坐ると、紗都は遠くを見る目になった。
「母さんは私が八つの時に亡くなったから、那賀子さんがエプロンかけてキッチンにいると、それだけでホンワカしちゃう」
「伯母さんて、自然に面倒見てあげたくなる人だよな」
「私が見てもらってる感じ」
 紗都は苦笑した。
 その横へ、江田も長い脚を曲げて座り込んだ。
「女優になりたいんだって?」
 気恥ずかしくなって、紗都は水面を覗きこみ、髪を直すふりをした。
「女優っていうか、ナレーターとか人形劇なんかもいいなって。 セリフをしゃべるの、凄く好きなんだ」
「きれいな声だもんな」
「えーそうかな。 希望持てる?」
「俺は持てると思う」
 嬉しくなって、紗都は横の彼にズンと体をぶち当てた。
「もっと言って。 褒められると伸びるタイプなんだ」
 江田は微笑み、紗都の上半身に腕を回して、ギュッと抱きよせた。
「紗都はかわいいしー」
「それで?」
「おっとりしてて優しいしー」
「それでそれで?」
「化粧薄くてケバ子じゃないしー」
「そうだけど?」
「唇プルンで、こうしたくなるー」
 初めはチュッ軽く口が当たった。 それから不意に、真剣になってキスされた。

 うぅ……
 陽だまりの中で融けていきそうで、紗都は無意識に体をよじった。

 顔が離れたので目を開けると、黒ずんだ瞳が見つめていた。 必死に力を込めた眼だった。
「俺さ、明後日〔あさって〕に工房へ帰るんだけど」
「うん」
 気落ちして、紗都は小声になった。
「一緒に来ない?」


 は?


 突然辺りがまぶしくなった。 慌てて体を起こして返事しようとしたら、バランスを失って逆に倒れこんでしまった。
 これ幸いと胸に抱き入れて、江田は声を柔らかくした。
「どんなとこで働いてるか、見てほしいんだ。 学校休ませちゃうけどさ」
「いいのいいの!」
 声が頭のてっぺんから出た。
「仲間にも紹介する。 俺の大好きな彼女、いや、フィアンセだって! いいよね?」

 初めから決まっていたような気がした。 初めて門の前で顔を合わせた瞬間から。
 紗都は江田の腕をゆっくりと撫でおろし、力強い指を握り直して、心の奥から響く声で答えた。
「すごくいいよ」




【終】






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