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表紙

薫る春  57



 掛けてきた相手の名前を見て、那賀子夫人の顔に影が走った。
「杉本さんだわ……」
「何て言い訳するか、聞いてみますか?」
 酒田が、ちょっと面白そうに言った。
 那賀子はうなずき、ボタンを押して耳に当てた。 とたんに大音量が流れ出してきたので、顔をしかめて携帯を遠ざけた。
 金切り声が、周囲にまで聞こえた。
「どこへ行かれたんですか! お探ししてたんですよ、心配で! 携帯もずっと電源切ったままだし。 誘拐されたんじゃないかと思ったくらいですよ!」
「気晴らしに散歩してたのよ。 心配かけたわね。 でも」
 そこで那賀子夫人の声がいくらか冷たくなった。
「どうして私がいないのがわかった? 部屋に鍵かけといたはずなんだけど」
「それは……いつまでも起きてらっしゃらないから、窓から覗いたんです」
「覗いただけ?」
「いえ、呼びましたよ大声で。 でも、動かれないから不安になりましてね、窓から入ってみたんです。 ほら、脳梗塞とかいろいろあるじゃないですか」
 なかなか言い逃れがうまい。 そういえば、那賀子夫人も窓をまたいでヨッコラショと外へ抜け出ていたわけだ。 今どきの中高年はなかなかやるー、と紗都は妙なところで感心した。
 那賀子はすました顔で返事していた。
「じゃ、ちょっと買い物してすぐ戻るわね。 お昼はもう戴いたから、晩は軽く、かけそばでも作ってください」
「かしこまりました」
 ほっとした声が返ってきた。
「そうだ、お客さんたちはもう帰った?」
「立花様と浪岡様ご一家は、明日朝が早いからとお帰りになりました。 安田さま方は、奥様が心配で、まだ」
「あらそう。 いろいろご苦労様でした。 じゃあ後でね」
 電話を切った後、那賀子はぽつんと呟いた。
「あの人の作ったもの、もう食べる気がしないわ」


 那賀子夫人がうまく安心させたので、杉本たちがすぐ危険を察知して逃げ出す心配はなさそうだった。
 そこで、一同は計画を変更して、これから夫人と共に吉崎邸へ乗り込むことにした。


 いよいよ、黒幕と対決だった。








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