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表紙

薫る春  54



 江田が急いで立ち上がった。 そして、横で小さくなっている紗都に慌しく囁いた。
「お父さん?」
「うん……」
 消えてしまいたいと思いながら、紗都はわずかに頷いてみせた。
 父は持ち前の太い声で、朗々と話していた。
「上で打ち合わせしてまして、今終わったところなんですが、うちの不肖の娘が目に入ったもので、もしやご迷惑をかけていないかと」
 娘? と呟いて、那賀子は紗都に視線を移した。 その目が、なんだか楽しげに変わった。
「まあ、あなたライジング・グループの社長令嬢?」
 令嬢て…… 紗都はガビーンとなった。
「そんな立派なものじゃ……」
「勝手な子ですよ。 親の助けは借りんなどと一丁前なことを言って、一人暮らししてるんです。 ろくなもの食ってないから、ひどい顔色だ」
 はっと気付いて、江田が落ち着かなくなった。
「そういえば、メシまだだったよね。 気分どう?」
「へいき。 その前にこのオヤジをなんとかしないと」
 ほっとくと、実はヘタレの女優志願でとか何とか言い出しそうだ。 紗都は父をチラチラ睨みながら言い返した。
「ちゃんと食べてます。 魚も、フィレオとか」
「加工食品ばかり食ってるんじゃない。 今日こそまともな物を食わせてやるから、ついてこい。
 奥様も、もうこんな時間ですが、昼食をご一緒にいかがですか?」
「そう言えば」
 那賀子夫人が頼りない声を出した。
「またお昼食べてなかったわ。 忘れてた。 皆さんはどう?」
「僕も」
「私もまだ」
 やっと言い出しっぺが現れた。 それが父というのが少々厄介だが、紗都はほっとして、そっとお腹を押さえた。
 すかさず、父が申し出た。
「近くにいい寿司屋があるんです。 車があるんで、皆さんご一緒に」








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