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表紙

薫る春  53



 この時点で、ロビーの時計は十二時五八分を指していた。 いろんなことがうまく収まりそうだなーと思ったとたん、ほっとして、紗都の足から力が抜けた。
「じゃ、遺書は作らないって前に言ったのは」
「杉本さんの反応を見るためよ。 なんかホッとした顔をしてたわ。 だから、すぐ悪さをすることはないだろうって思ったんだけど」
 江田と那賀子の話し合う声が遠くに聞こえる。 ああ、いい雰囲気だな、でもいつになったら食事しに行けるかな、とぼんやり考えたとき、突然聞き覚えのある声がした。
「お、あいつこんな所で何してるんだ?」


 ギョエー!
 一度に意識が舞い戻ってきた。
 急いで見回した紗都の目に、エレベーターから降りてきたばかりらしい父の姿が映った。
 あわわわ……便利屋のバイトをしていたなんてバレたら、自由な一人暮らしもそれまでだ。 紗都はウサギのように跳ね上がって、父と連れの方に駆け寄った。
「おっきな声出さないで。 大事な話してるんだから」
「あの人知ってるぞ」
 父は、ぶすっとした顔で言った。
「吉崎夫人だろ?」
「そう……えっ? お父さん知り合い?」
 やばい。 最高にまずい! 紗都がおたおたしている内に、父は秘書の高宮〔たかみや〕を引き連れて、ずんずん那賀子たちの席に向かっていた。
 無駄な努力と知りながら、紗都は父の袖を掴んで、なんとか引きとめようとした。
「行かないでよ。 迷惑!」
「目が合ったんだから、ご挨拶しなくちゃ」
「私がしとくから。 お父さんは仕事やっててよ」
 だが、もう遅かった。 カヌーとジムで鍛えた父は、紗都の妨害なんかハエの頭ほども気にせず、あっという間にテーブルに到着した。
「いやあ、お久しぶりです。 変わらずにお元気で」
 那賀子夫人は明らかに驚いた様子で、大きめの目をぱちぱちさせた。
「まあ、佐藤さん。 ご無沙汰してます」









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背景:風と樹と空と
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