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表紙

薫る春  52



 ポータブルデスクの引き出しに、何通か封書が入っていたそうだ。 江田が窓から覗いたのでびっくりして、中を読まずに逃げ出したが、宛名が二種類あったという。
「一つは杉本邦子。 でももう一つ、呉迫〔くれさこ〕邦子っていうのが」
「呉迫? 珍しい苗字ですね」
 江田が言うと、那賀子は深刻な表情になった。
「その苗字、心当たりがあるの。 昔うちの実家にいたお手伝いさんと同じ名前なのよ」


「那賀子おぱさんの実家の?」
 眉をひそめて訊く江田に、那賀子はぎこちなく問い返した。
「もしかして、ねえ、あの人、私の血を分けた妹、なんてこと、ないわよねえ」
「DNA鑑定してみたら?」
「それ以前に」
 同席していた弁護士の酒田が、憮然とした顔で言った。
「たとえ相続人であっても、被相続人に危害を加えたら、財産相続権は無くなります」
「他の相続人にもでしょ? 私二回も襲われましたよ。 ほんとの相続人じゃなかったけど」
 紗都が意気込んだ。
 弁護士は難しい表情になって、首を横に振った。
「それを証明するのは、ちょっと困難でしょう」
「そんなー!」
「とっちみち、資産を残したい人に残すという遺言書を書けば済むわけですよ」
 酒田はあっさりと言い、那賀子に視線を送った。 那賀子は小さく頷くと、訴えるような目を江田に向けた。
「それでね、一部を各方面に寄付して、後はすべて、あなたに相続してもらうことにしました。 税金や管理でいろいろ大変だろうけど、お願いね」


 江田は一瞬、道に迷った子供のような顔つきになった。 この件はもう終わりで、気分一新して故郷へ帰ると決めたばかりだったから、頭の切り替えが効かないらしかった。
「は……でも俺、大好きな仕事があって」
「大いに結構よ」
 那賀子夫人は、ひまわりのように笑った。
「私はまだ七十七、満年齢だと七十六になったばかりよ。 どこも悪くないし、平均寿命でいけば後十年は生きます。 あなたは好きな仕事にいそしんで、いい人と結婚して、すてきな家庭を築いてちょうだい」
 そこで那賀子は、紗都をちらっと見た。 同時に、パチッとウィンクした。
「このお嬢さんみたいな人とね」
「あ、はい……はい!」
 ぼんやりしていた江田の声が、突如元気一杯になった。










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