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表紙

薫る春  50


 那賀子さんはとっくに逃げ出している。 いくら探し回ったって見つかるわけがない。 安心して、紗都は江田と繋いだ手を振りながら、正門目指して歩き出した。
 少し行ったところで、背後に何かを感じた。 振り向いたが、誰もいない。 しかし、また少し進むと、カサコソと音が追ってきた。
 もう一度振り返ろうとして、軽く手を引かれた。 江田が小声で囁いてきた。
「尾行されてるんだよ。 俺たちが那賀子さんの居場所に行くと思ってるんだ、きっと」
「へえ。 もっと勘違いさせてやろっか。 物置のほうへ行ってみよう、ね?」
「おもしれー」
 ふたりは何くわぬ顔で、そそくさと右に曲がった。 予想した通り、コソコソ音もすぐ後についてきた。


 二人は作業小屋に入って、二階に上がった。 窓枠に隠れて外を見ていると、杉本が植木の陰からチラッと顔を覗かせて、すぐ消えた。
「見張ってる?」
「うん、木の幹に張りついてる」
 目を離さずに、江田は携帯を取り出してボタンを押した。
「溝口さん? 俺っす。 那賀子おばさん、無事に逃げ出したみたいですね」
 モゴモゴとかすかな返事が漏れてきた。
「ベッドルームに細工したの、ばれちゃいましたよ。 今、みんなで家中探し回ってます」
 またモゴモゴ。 じれったそうに、江田は体を動かした。
「ともかく、俺たち、もう帰ります。 那賀子おばさんによろしくって言ってください。 おばさんすごくしっかりしてる。 俺が気を遣う必要なかったですね。 きっと百歳まで軽く生きられますよ」
 雑音のように小さかった返事が、トーンアップした。 江田は受話器を押さえ、逆に声を低めた。
「シッ。 外に聞こえるじゃないですか。 下で杉本が見張ってるんですよ。 もちろんおばさんがどこにいるか、あいつらには言いません。 知らないですもん」
 返事はしつこく続いた。 江田は空いた手を首筋に置いて嫌そうに聞いていたが、やがて紗都に顔を向けた。
「表門からすぐ出ろって。 那賀子さんがどうしても会いたがってるんだってさ」
「やっと江田さんのこと信じたんじゃない? 行こ!」
「なんかなー」
 気が進まない様子で、江田は窓辺から身を引いた。











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背景:風と樹と空と
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