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表紙

薫る春  39


 走りながら江田が息せき切って尋ねた。
「弁護士の名前、何て言った?」
「ええと……」
 書いてないだろうなと思ったが、一応左腕を見てみた。
「お、あった! 酒田だって」
「やるなあ」
 本気で感心すると、江田は急カーブを描いて右に曲がった。


 並木道は一直線だから、遠くまで行ってしまった弁護士の後ろ姿がちゃんと小さく見えた。 とたんに江田はダッシュをかけ、紗都を引きずるようにしてひたすら走った。
 幸い、三十メートルほど追ったところで、酒田のほうが背後から迫る足音に気付いて立ち止まってくれた。 そのまま走り続けたら、紗都は貧血を起こしてぶっ倒れていたかもしれない。


 酒田は、茶色の縁の眼鏡をかけ直して、二人をまじまじと見た。 五十代初めぐらいのがっちりした体格の男だ。 温厚そうだが、目は鋭かった。
「あの、弁護士の酒田さんですか?」
 江田が息を切らして尋ねた。 酒田は小さく咳払いすると、そっけなく答えた。
「そうですよ。 何か?」
「僕は江田といいます。 江田芳」
「はあ」
 弁護士は驚かなかった。
「吉崎夫人の甥御さんだね? さっき夫人から伺いました」
「そうです。 ですけど、養子とか法律とかじゃなくて、他に大事な話があるんです」
「何でしょう?」
「那賀子さんが」
 そこで若い二人の声が揃った。
「危ないんです!」


 はて、という表情で、酒田は首をわずかに斜めに倒した。
「危ない?」
「命が危険なんですよ。 親戚の人たちが財産の山分け狙ってるんです」
「それで、那賀子さんに何かしようとしてるらしいんです。 急に心臓発作起こさせるとか」






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