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表紙

薫る春  35


「母さんは、駆け落ちする旅費がなかったんですって」
 手紙を受け取ってまたポケットにしまいながら、江田は説明した。
「那賀子おばさんのくれた金で逃げ出せたんです。 結婚できて、俺が生まれたのも、元はそのヘソクリのおかげ。 だから、恩返しすべきだと思って、どうなってるか見に来たんだけど」
「こんな豪邸に住んでるって知らなかった?」
「ぜんぜん」
 江田は憂鬱そうに息をついた。
「普通の古い家かマンションでひっそり暮らしているおばあちゃんかな、なんて予想してた。 でも、あの人ならいくらでもヘルパーや介護士を雇えるよね。 しばらく守ってあげたいと思った俺のほうがバカみたいだ」
 よけいな考えをふるい落とすように、帽子を取って髪を一振りしてから、江田は溝口に言った。
「これから本部に戻って退職願を出してきます。 すいません、途中で辞めて」
 溝口は難しい顔になった。
「俺は奥さんに確認してくるよ。 まだ警備を続行するかどうか。 君が善意で警備に当たっていたと説明してみるが、納得してくれるかな。 ややこしいことになったよ」


 こうして、溝口は母屋の方へ、そして江田は正門の方角へ、二手に分かれて歩き出した。
 中間で、紗都は迷っていた。 江田に話したいことがあるが、彼は那賀子夫人と気まずくなってむくれていて、紗都のことを忘れてしまったようだ。 前かがみになって大股でどんどん遠ざかっていく。 背中が怒っているようで、声をかける勇気がなかった。
 でも、二十メートルぐらい離れたとき、不意に江田がピタッと足を止めた。 それから、くるりと向き直って駈け戻ってきた。
 まだ立ち止まっていた紗都の前まで帰ってくると、江田は訊いた。 ちょっと遠慮がちに。
「あの、さ、電話番号、教えてもらっていい?」


 パアッと、紗都の顔に笑いが広がった。 わかりやすい子なのだ。
「うん! 江田さんのも教えて」
 携帯を出して入力した後、二人は並んで歩き出した。 また自然に手をつないでいた。
「江田さんどこの人?」
「飛騨。 飛騨高山。 いいとこだよ」
「有名なお祭のあるところだ」
「そう。 それに銘木もたくさんある。 俺たち、国府町でおもちゃ工房をやってるんだ」
「おもちゃ?」
「そう、白木で、ちょっとしたカラクリのあるやつ。 外国にも輸出してるよ」
 そう言って、江田はポケットから名刺をホッチキスで止めたパンフレットを出して紗都に渡した。







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