表紙目次文頭前頁次頁
表紙

薫る春  34


 溝口は腰に手を当て、困った顔になった。
「ここの奥さんも、ゴタゴタが心配で俺たちを雇ったんだろうがな。 事件性が出てくると、もう警備会社の守備範囲じゃねえな。 警察へ通報すべきだって奥さんに言ってくるわ」
「ともかく、俺は辞めさせてもらいます」
 江田は、ポケットから手を出して、きっぱりと言った。 賛成できないという表情で、溝口は口を尖らせた。
「それじゃ逆に怪しまれるよ? この屋敷に来たくて、うちの会社にもぐり込んだみたいでさ」
「実はそうなんです」
 江田はあっさりと認めた。


 あんまり簡単に言われたため、溝口と紗都は思わず顔を見合わせてしまった。 確かにうすうす感じてはいたが……。
 さっぱりと、むしろ明るく、江田は続けた。
「俺、吉崎の伯母さんの面倒を見るつもりで、上京してきたんですよ。 老人の一人住まいで心細いだろうからって、死んだ母に頼まれて」


 紗都は目をぱちくりした。
 まったく予想してない答えだった。 うそ〜、と口を滑らせそうになった。
 だが、考えてみれば那賀子さんは今年で七十七歳。 今のところ、実年齢より遥かに若く見えるとはいえ、老人にはちがいないのだった。 しかも、一人暮らしの。
 溝口も、思わぬ答えにたじろいだ。
「お母さんに?」
「はい」
 江田はポケットに手を戻し、角の折れ曲がった封筒を取り出して、中の手紙を広げた。
「母が病室で書いてたらしいんです。 後で看護師さんが渡してくれて」
「読んでいいの?」
「ええ、どうぞ」
 とたんに溝口と紗都が頭を寄せて、覗きこんだ。



『芳へ
 いつも明るく来てくれるけど、母さんはもう長くないのが自分でわかっています。 面と向かって言うのは照れるから、書き残しておくね。
 入院前も、入院してからも、本当によく世話をしてくれました。 ありがとう。
 難産だったけど、あなたを産んでよかったと、心から思っています。
 年のいった母で、あまり一緒に遊んであげられなくて、ごめんね。 母になれて幸せでした。 あなたの結婚式に出ることができなくて、それだけが残念です。

 私がいなくなったら、あなたは独りになってしまう。 でも、付き合える親戚がいないわけじゃないの。
 前に一度だけ、兄の話をしましたね。 吉崎貢といって、東京の荻窪に家があります。 私の結婚に大反対して、出入り禁止にしてしまったのは知っているわね。
 兄の奥さんは、那賀子さんといって、親切でいい人です。 駆け落ちしてしばらくは、手紙で連絡を取り合っていたの。 でも二年ぐらいして兄にばれて交際を止められて、それっきり。 私も引っ越して、お付き合いは絶えたけれど、いつも懐かしく思っていました。
 その那賀子さんも、兄を亡くして独りぼっちだそうです。 出ていくとき、こっそりへそくりを渡してくれた那賀子さんは、私の恩人みたいなもの。 もし困っているようなら、私の代わりと思って、気にかけてあげてくれませんか? それが優しい息子への、母の最期のお願いです。
 元気でね。 仕事がますます順調に行くように、あの世で祈っています。
 そして、いつか気の合った素敵な女性が見つかりますように。


母より感謝を込めて』








表紙 目次前頁次頁
背景:風と樹と空と
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送