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表紙

薫る春  32


 那賀子夫人は、額に手を当てて本当に辛そうにした。
「きっと私が急ぎすぎたのね。 まだ体はどこも悪くないんだけど、喜寿になると八十が近くなった気がして、焦ってしまったの」
ひとつ深く息をついた後、那賀子は迷いを振り切った。
「ともかく、養子の件はもっとじっくり考えることにします。 そもそも、本人のあなたに承諾を取ってないんだし。 引き受けてくれるものと勝手に決めていたのね、私」
 その言葉を聞いて、家政婦の目が勝ち誇ったように輝いた。
 とたんに紗都は悔しくてたまらなくなった。
――言い返してよ。 こんなズブイおばさん言い負かしちゃってよー。 いい気になってるよ? ここの家族でもないのに――
 江田は、ちょっとムッとした表情で那賀子を見返した。 だが、杉本に対したときのような怒りは見せず、むしろ淡々と挨拶した。
「わかりました。 じゃ、僕はこれで。 西関東防犯には他に優秀な課員がいますから、今日で交代させてもらいます」
「え? 江田くん、ちょっと」
 さっさと食堂兼応接室を出ていく江田を、溝口が慌てて追いかけた。
 那賀子夫人もぎょっとして、何か口に出そうとしたが、杉本が聞こえよがしに遮った。
「引き止めると思ったら大きな間違いですよ、ねえ奥様?」


 これで紗都が切れた。
 何の権利があって、那賀子夫人のアドバイザー面してけしかけるんだ!
 ぐっと顔を上げ、紗都は発声練習で鍛えたドでかい声を出した。
「江田さんは悪くないです! 頭よくてしっかりしてるし、それに親切! 奥さん、喧嘩別れはもったいないと思います」
 杉本の口が曲がった。
「若い女の子って、顔のいい男の子にどうしてこう弱いのかしらね〜。
 もしかして、あなたたち、ぐる?」






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