表紙目次文頭前頁次頁
表紙

薫る春  30


 気がつくと、大広間の入口からたくさんの頭が覗いていた。
 黒い頭の一人が、声を張り上げた。
「何か揉めてるんですか? 那賀子伯母さま大丈夫ですか?」
「ええ、とてもうまく行ってるわ」
 那賀子は上の空で答え、できるだけ穏やかな表情を作った。
「祝賀会に来てくれてありがとう。 ゆっくりと東京見物していってね」
「そうもいかないんですよ。 明日から仕事でね。 貧乏暇なしですよ」
「お昼は食べていくんでしょう?」
「ご迷惑でなければ」
 立花親生がせかせかと答えた。 他の連中も頷き合い、口々に話をしながら廊下を通って階段に向かった。 それぞれの部屋に行くために。


 彼らが廊下の向こうに消えるのを見極めて、、溝口がしゃべり出した。
「ご報告に来たのは、先ほど九時少し過ぎに、こちらのかおるさん……じゃないんですね? 君、名前は?」
「佐藤です」
 下の名前はできるだけ言わない癖がついていた。 溝口は、ホントかな、という顔をしたが、ともかくその名で説明した。
「こちらの佐藤さんが、不審な事故に遭いまして」
「また?」
 那賀子の顔がくしゃくしゃになった。
「ここじゃ何だわ。 食堂に行きましょう。 さあ、こっちで詳しく話して」


 大広間に隣り合った食堂で、那賀子は脚立と材木の仕掛けを聞き、新たにショックを受けた。
「ひどいわ。 なんでそんなことを」
 那賀子の目が、背筋を伸ばしてソファーに座った江田の表情を、じっと探った。
 疑われていることに気付いて、江田は目を見張った。
「ちが……僕じゃないです!」
「そうですよー」
 紗都も思わず必死になった。
「江田さんじゃ無理です。 私があそこを通ること、わからないですもん。
 あんな道、あることも知らなかった。 初めて通ったんです。 杉本さんに言われて」
 共に食堂に入ってきて、遠慮深くテーブルの端近くに立っていた杉本が、きっとした表情に変わった。
「私に言われて? 聞き捨てなりませんね。 私が脚立に、その変な仕掛けをしたっていうんですか?」
「違いますか?」
 やや冷たい口調で、江田が尋ねた。





表紙 目次前頁次頁
背景:風と樹と空と
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送