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表紙

薫る春  24


 紗都は迷った。
 雇われただけなんだから、この場で契約を断わって帰ることもできる。 あんな怖い思いをさせられたんだし。
 だが、踏み切れなかった。 このおっとりして気さくな那賀子夫人を放り出して逃げ帰るのは、気が進まない。 巨額な遺産がからんでいて、しかも屋敷はオオカミだらけなんだもの。
 ドアの外が賑やかになった。 遺産狙いのオオカミたちが、隣の広間へ食事をしに行くところなのだ。 今廊下で挨拶を交わしている連中の誰が、夜中に忍び込んで包丁をブッ刺していったんだろう。 親戚たちの一人一人、特に男性陣の顔を思い浮かべて、紗都はいろいろ忙しく推理を働かせた。
 通り過ぎる話し声に無言で耳を澄ませた後で、那賀子はゆっくり立ち上がった。 目に決意が表れていた。
「あなたには迷惑かけたから、お詫びしなくちゃね」
 つられて立った紗都の前で、那賀子は横の棚から小切手帳を取り出し、サラサラと書いた。
「些少だけど受け取ってくれる?」
 サショウって何のことだ? と首をかしげながら額面を見て、紗都は顎が落ちそうになった。
「いえ、あの、受け取れません! そんな……多すぎです!」
 小切手には七桁もの数字が並んでいた。


 那賀子夫人は、どことなく悲しげな微笑を浮かべた。
「あなた、いい人ね。 本当の相続人だったらよかったのに。 でも、このぐらい当然よ。 こちらの調査不足で、便利屋さんを家族のトラブルに巻き込んじゃったんだから。 お仕事の費用は別にワーク・カサイのほうにお払いしますから、心配しないで」


 結局、無理やりポケットに入れられてしまった。 紗都は妙に落ち着かなくなった。
「すいません、えーと、私、これから何をすればいいんでしょうか」
「もう何も」
 那賀子はあっさり言った。
「親戚の人たちが手続を終えて帰るまで、ここでじっとしていればいいの。 後でハイヤーを呼ぶわね。 午後になると思うけど、何時頃がいい?」
 紗都は考えた。 一秒でも早く、この屋敷を離れたい。 だが、心残りが一つあった。 遠慮がちに、紗都は頼んでみた。
「あの、四時ごろでは?」
「そうね、そうしましょう」
 那賀子はすぐ電話に手を伸ばした。
 番号を探しながら、気がついた。
「そうそう、朝御飯が冷めちゃったわね。 温めなおす?」
「いえ、平気です」
 紗都は急いで坐り直し、冷えてもフワフワのスクランブルエッグをフォークで口に運んだ。
 奥さんを呼んできてくれ、と溝口に頼まれたことなど、すっかり忘れて。








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