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表紙

薫る春  23


 それからまた、一分ほど無言が続いた。 その間に、那賀子夫人の表情がどんどん変わっていった。 驚きから狼狽、そして怒りへと。
「あなたね、そういうことは真っ先に確かめるものよ」
 ボソボソと言い訳が続いているらしい。 那賀子は口を尖らせた。
「起きてしまったことは仕方がないわ。 それで? 見つかったの?」
 今度の間合いは短かった。
 しかし、那賀子の反応は、最も激しかった。
 いきなり口に手をやるなり、呻きに似た声を発した。
「もう一度言って!」

 周りは動かずに立っていた。 三人とも自然に耳を澄ましている。 やがて那賀子夫人が力なく電話を切って腕を下ろすまで、緊張が続いた。
 誰の顔も見ずに、那賀子は弱い声音で呼んだ。
「かおるさん」
「は、はい」
 紗都が、もっとかぼそい声で返事した。
 那賀子は手を急に伸ばして、紗都の左手をそっと握った。
「あなたと話したいことがあるの。 ゴハン前で悪いんだけど、今すぐに」
「はい」
 それは構わない。 緊張で胃が痛くなっていて、食欲なんかなかった。
 目を床に落としたまま、夫人は続けた。
「江田くんは仕事に戻って。 溝口さんに、生垣をあまり深く刈り込まないようにと言ってね」
「はい、わかりました」
「杉本さんは、お客さんたちの朝ごはんをよろしくね」
「かしこまりました」
 きびきびした様子で、杉本は盆を抱えて出ていった。 その後、江田もきちんとドアを閉め、ピカピカの廊下を立ち去っていった。


 那賀子は紗都に椅子を勧めて、自分もソファーに座った。 つやつやした若々しい顔が、初めて年相応に老けて見えた。
「あの、さっきの話だけど」
「はい」
 両手をギュッと握りしめて、紗都はおそるおそる答えた。 やっぱり信じてもらえないよなーと考えながら。
 那賀子は迷った表情で、ぎこちなく尋ねた。
「あなたの部屋だとわかっていて、襲ったのかしら?」


 あ、あれ?  急に風向きが変わって、紗都は驚いた。 つい今しがたまで、全然信じていないようだったのに。
「そうだと思います。 杉本さんに言われて、目印にシール貼っておいたから」
 那賀子の肩が、すっと落ちた。 うつむくと、手で目をこすって、那賀子は深く溜め息をついた。
「ああ、どうしたらいいのかしらね。 こんなにこんぐらかってしまって」
 それから、口調に怒りが混じった。
「佐竹さんがいけないのよ。 一番肝心なところを間違うから」
「え?」
 気を取り直して、那賀子夫人はピンと背筋を伸ばした。
「いいの。 私ができる限りあなたの傍にいるようにしますからね。 もう怖い目に遭わせたりしないわ。 もう少しだけ我慢して。 弁護士さんが来て、親戚たちが帰ったら、すべてをはっきりさせます」









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背景:風と樹と空と
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