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表紙

薫る春  19


――そうだよねー、私だって働いてるもん――
 紗都はすぐに納得した。 そして、ホロリとした。 世の中は楽じゃない。 われわれ若者は、下っ端だから特に辛いんだ。
 用具をまとめ終わって、江田は畳の隅に置いてあったバッグから缶を二本取り出した。
「コーヒー飲む?」
「え? うん、ありがと」
「さっき自販で買ってきたんだ。 ちょっとシブイけど、目はパッチリするよ」


 並んで坐って、まったりコーヒーを飲んでいると、ゴッゴッゴーという単車のエンジン音が近づいてきて、建物の前で停まった。
 低く口笛を吹きながら入ってきた親方は、江田だけでなく女の子までいるのを見て、びっくりして立ち止まった。
「お、もう来てたか。 この子は?」
 江田は立ち上がって紹介した。
「吉崎かおるさん。 このお宅の養女になったお嬢さんです」
「養女……」
 親方の溝口は絶句し、改めて紗都の顔を穴かあくほど見つめた。
「そんなこと一言も……いや、ともかく、そのお嬢さんが朝早く、こんな所で何してる?」
「脅されたんですって」
 場違いに明るく、江田は説明した。
「朝起きたら布団に包丁がささってて」
「なにー!」
 溝口は、被っていた不細工な帽子を取り、手に掴んだまま、紗都目がけて詰め寄ってきた。
 紗都はぎょっとなって身を引いた。 軽く口をパクパクさせながら、溝口はせっかちに尋ねた。
「それで? 犯人に心当たりは?」
「いえ、あの……わからないです」
 消え入るような声で、紗都は答えた。


 溝口は、凄いしかめ面になって土間を歩き回り、帽子を畳に放り上げた。
「奥さんも困った人だな。 親戚が集まるから、それとなく見回っといてくれとだけしか言わないから」
 それとなく見回る? 園芸店の人に、普通そんなこと頼むかな―― 缶を握って縮こまったまま、紗都は目を往復させて二人の男を替わりばんこに眺めた。
 江田が困ったように咳払いした。
「あのう、親方……?」
「この人なら話してもいいだろう? 襲ったほうじゃない、襲われたほうなんだから」
 むつっとした表情で、溝口は紗都に向き直った。 そして、急に踵を合わせてキチッと立った。
「セキュリティーの者です。 西関東防犯社。 こちらが当社です」
 そして、作業衣のポケットから名刺を取り、サッと紗都の前に差し出した。









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背景:風と樹と空と
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