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表紙

薫る春  18


 江田は別に驚かず、よしよしという風に紗都の背中を軽く叩いた。
「ともかく、警察には行けないよな。 証拠がないんじゃ。 で、どうする?」
 どうしよう。 とりあえず、江田につかまっていると気持ちがいいので、紗都は彼のジャンパーを握って胸に顔を押しつけていた。
「九時に弁護士が来るって。 そこで親戚の人たちに財産分けするらしい。 少しだけど」
 少しといっても二千万円だ。 この家全体の資産に比べれば小さい金額だというだけで。
 江田は腕にはめたゴツい時計を眺め、渡り廊下のガラス戸から射し込む朝日に目をやった。
「七時前か。 朝飯は八時頃みたいだから、みんなが食堂に出てくるまで後一時間。 ここにいるの、嫌だろ?」
 絶対に嫌だ! 紗都はオロオロ声を出した。
「家へ帰りたい。 でも、那賀子さんと約束したし」
「裏の物置に隠れるか? 物置っていっても二階建てで、上がちゃんとした部屋になってるんだ。 親方は通いだけど、俺はそこに泊めてもらってるから」
「うん、お願い!」
 紗都はすっかり、江田に頼りきりになってしまった。




 二人は静かに渡り廊下を出て、池を巡って奥へ進み、並の二階家ぐらいある物置に入りこんだ。
 そこの一階は、半分が土間になっていて、庭仕事の道具や一輪車、梯子などが整然と並んでいた。 右の方は和室で、座布団が三枚置いてあり、テレビやサイドボードもあった。
「ここで一休みできるんだよ。 働きやすい家なんだ」
 紗都は遠慮がちに和室の端に腰かけた。 加西社長か長野副社長に電話したいが、枝切り鋏やワイヤーをせっせと用意している青年の前ではできない。 といって、席を外して一人になる決心もつかなかった。
――この人にくっついていれば安心だ。 力が強そうだし、しっかりしてる。 真面目で働き者だし――
 そこで紗都は、はたと気付いた。
 今日は日曜日じゃないか。



「ねえ」
「なに?」
「休日でも仕事するの?」
 床に置いた電気ノコを持ち上げようとした手を止めて、江田は顔をもたげ、こともなげに答えた。
「割増料金くれればさ、休みだって働くよ」









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背景:風と樹と空と
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