表紙目次文頭前頁次頁
表紙

薫る春  15


 こんな早朝なのに、江田の目はパッチリ澄んでいて、表情も明るかった。 早寝早起きの健康青年らしかった。
「江田さんもどうして? まだ七時前だよ」
 何とか声が出た。 かすかな震えは否めなかったが。
「ああ、今朝は五時に目が覚めちゃったんで、それなら早めに枝切りの支度しとくかって」
「そう……」
「で、吉崎さんは?」
「わた……私?」
 危ない危ない。 吉崎という仮の苗字を忘れるところだった。
「あの、あのね」
 とたんに恐ろしい光景が頭一杯に広がった。 携帯を潰すほど握りしめたまま、紗都は短い坂を駆け上がって、江田のすぐ前にくっついた。
 涙が出そうになった。 この人なら部外者だし、信用できる、と、とっさに思った。
「私、この家の養女ってことになったの」
「へえ」
 意外そうに、江田は右の眉毛を吊り上げた。 器用なことするなあと思いながら、紗都はマッハで事情を説明しようとした。
「つまり、このお屋敷の相続人になるみたいで、他の親戚から妬まれてるの」
「それは、そうだろうな」
 江田の声が低くなった。 体も自然に前かがみになった。
「ここ、部屋数が凄いでしょう? 昨夜、寝る部屋間違えたんだ。
 朝に気がついて元の部屋に行ったら、布団にグサッてほう……包丁が……!」

 話しているうちに、頭がグラグラになった。 よろめく紗都を、江田ががっしと受け止めた。
「しっかり! つまり誰かに殺されかけた?」
「うん……その前に睡眠薬飲まされたみたい」
「睡眠薬も」
 紗都の腕を支えたまま、江田は眉を寄せて考え込んだ。
「回りくどいやり方だな」
「え?」
 意外な答えに、紗都は顔を上げて江田をまじまじと見た。
「だって、薬盛るならそのときに毒入れればいいのに、眠らせてから部屋へ行って、グサッて」
 紗都の体が、グサッに反応してゼリーのように震えた。
「どうしよう……ねえ、どうしたらいい? 朝早くから奥さ……那賀子さんを起こして心配させたくないし、警察とかは、なんかまずいし」
 まずいまずい。 話しながら、紗都はいっそう途方に暮れてきた。










表紙 目次前頁次頁
背景:風と樹と空と
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送